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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■武田二十四将4

・馬場信房 【ばばのぶふさ】 1515?-75
 民部少輔(みんぶ(の)しょう(ゆう))。信虎の代から武田氏に仕える。もと教来石(きょうらいし)景政といい、1546年、信玄の命により馬場氏(馬場虎貞が信虎を諫めて殺されている)を継いで侍大将となり、馬場信房と名乗る。のち鬼美濃、原虎胤にあやかるべく美濃守信春と改める。
 1559年には譜代家老衆となり、1562年には牧野島城を築く。山本勘助に築城の指南を受けたとされ、遠江諏訪原城などが信房の設計によるという。
 1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊の指揮を取る。1568年の駿河攻めでは、信玄が今川氏の宝物を奪うよう命じるが、信春は「武田家は貪欲とのそしりを免れない」と止めさせ、奪った宝物を火中に投げ込んだという。1569年、北条氏との三増峠の戦いでは先鋒を務める。1572年の三方ヶ原の戦いでも活躍。
 信玄の死後は勝頼を補佐するが、長篠の戦いで殿軍となって戦死する。
 子の昌房が継いだが、武田家滅亡の際に戦死したという。

・高坂昌信 【こうさかまさのぶ】 1527-78
 香坂とも書く。春日源助、源五郎、春日虎綱。弾正忠(だんじょう(の)ちゅう)。
 「信長の野望」シリーズだと顔に黒い面頬を当てているのでよくわからないのだが、美少年だったようで、農民の子から信玄の近習に取り立てられる。信玄は昌信を寵愛し、浮気を弁解する手紙まで残している。使番を経て、侍大将となる。1556年には海津城の城代となり越後の上杉氏に備えた。1561年の川中島の戦いでは妻女山への別働隊となる。
 派手な武功はないが、慎重かつ巧みな用兵で、保科正俊の槍弾正、真田幸隆の攻め弾正と並んで、高坂の逃げ弾正と言われた(敵に背を向けて逃げるのではない)。1572年の三方ヶ原の戦いでも、諸将が家康の追撃を主張する中、「上洛して京に旗を立てるのが先」と諭した。
 長篠の戦いのときも海津城にあって上杉氏に備えていたが、敗戦を聞くと勝頼を迎えに行き、軍装を着替えさせて、敗戦の見苦しさを感じさせないよう配慮したという。
 『甲陽軍鑑』は昌信が勝頼を諫めるために記した書とされる。かつては偽書同然の扱いであったが、近年は評価を見直す動きもある。
 長男昌澄は長篠で戦死、二男信達が跡を継いで海津城代となる。武田家滅亡後は上杉景勝に属すが、真田昌幸への内通を疑われて殺された。



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「逃げ弾正」って逃げる、の意味じゃないんだってば;;

 
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夏休み・よい子の武田家祭り!

どんどん行きましょう。

「戦国人物紹介」

■武田二十四将3


四天王、四名臣とも呼ばれる名将たち。信玄の死後も武田家を支え続けますが、高坂以外は長篠の戦いで戦死します。

・山県昌景 【やまがたまさかげ】 1529-75

三郎兵衛尉。初め飯富(おぶ)源四郎。飯富虎昌の弟(甥とも)。小柄で風采は上がらなかったという。信玄の近習、使番として徐々に活躍し、譜代家老衆三百騎持ちの大将となる。

1565年、信玄の嫡男義信と兄虎昌が謀反を企てると、昌景は信玄に報告、このため義信、虎昌は自害させられる。昌景はこの功により虎昌の赤備えを引き継ぐとともに、信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられる。

以後は各地の戦いに参加して、武田家最強と恐れられ、1572年の三方ヶ原の戦いでも家康の本陣を壊滅させている。1569年には駿河江尻城代に任じられるなど、内政・軍政両面で重きをなし、原昌胤とともに家中最高の「職」を務める。信玄が死ぬ際には「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺言されたという。

1575年の長篠の戦いでは敵陣に突撃し、銃弾を浴びるも馬から落ちず、采配を口にくわえたままの壮絶な戦死を遂げる。

長男昌次も戦死、二男昌光も武田家滅亡時に殺される。他の子孫は各地の大名に仕えて江戸時代も生き残っており、明和事件で死罪となった山県大弐も昌景の子孫を称している。



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赤備えにヒゲといえば・・・。

・内藤昌豊 【ないとうまさとよ】 1522-75

修理亮(しゅりのすけ)。もと工藤源左衛門。父が信虎に誅殺されたために、諸国を流浪する。1546年、信玄に呼び戻されて工藤氏の家督を継ぎ、五十騎持ちの侍大将とされた。

1561年の川中島の戦いでは妻女山の別働隊に属す。その後は西上野での戦いに参加し、上野箕輪城代となる。1568年、信虎の代に断絶していた内藤氏の名跡を継ぐことを許され、内藤修理亮昌豊と改める。1569年の北条氏との三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて武田軍の補給面を支える。本人はこの地味な役に不満だったが、信玄は「重要な役で自分がやりたいほどだ」と言って納得させたという。

1572年の三方ヶ原の戦いにも参加、1575年の長篠の戦いで戦死する。
信玄の代表的な戦いにはすべて参加し、常に武功があったが、信玄からは一度も感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)をもらうことがなかった。これについて信玄は「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし(当たり前)」とし、昌豊も「合戦は大将の采配に従って勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことだ」と語ったという。

子昌月(槍弾正・保科正俊の三男とも)が継いだが、武田家滅亡後は織田氏を経て北条氏に仕えた。



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貿易船の船長みたいだ・・・。迅速行軍のスキルはほかの武将につけても役立ちます。
 
「戦国人物紹介」

■武田二十四将2


 武田義信は二十四将に含みません。後継者となった勝頼(二十四将に含まないこともある)と並べると違和感があるからでしょうか。

・武田義信 【たけだよしのぶ】 1538-67
 太郎。武田信玄の嫡男。母は三条氏。一般に1552年に駿河の今川義元の娘を妻に迎えたとされる。甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟が結ばれたときとすれば1554年となる。1553年に元服。義信の「義」は将軍足利義輝から一字を賜ったという。
 1554年に十七歳で初陣。信玄の後継者として順調な出発だったが、1560年に岳父(妻の父)今川義元が桶狭間で敗死すると、運命が狂いだす。
 1561年の川中島で信玄と意見が対立し、以後不和になったという。1565年に謀反の嫌疑で傅役(もりやく)の飯富虎昌とともに捕らえられて、二年後に死去。自害したとも病死したともいわれる。この対立は単なる父子の対立に留まらず、武田家中で今川(駿河)攻めを進めようとする派と親今川派の二つに分かれての抗争を招いた。
 親今川派を粛清することで家中の意見統一を図った信玄だが、嫡男という後継者を失った代償は高くついた。

・一条信龍 【いちじょうのぶたつ】 1539?-82
 信竜。右衛門大夫。信虎の八男で信玄の異母弟。生年を1539年とすると、甥の義信よりも後に生まれたことになる。武田家初代信義の二男、一条忠頼に始まる一条家を継ぐ。一門として本陣を守備したことが多かったのか、あまり武功は伝わらないが、1575年の長篠の戦いに参加、重臣多数が戦死する中、生還している。
 武田滅亡時は甲斐上野城を守備するが戦死。一説に、織田信忠(信長の嫡子)の軍が甲斐に攻め入ると残党狩りがあり、捕らえられて殺されたともいう。
 
また民主党のパフォーマンスか(タイムラグがあったみたいだけど)

軽井沢の鳩山別荘で過ごし、ヘリで都内を遊覧。殺人者ですぜ。敵か味方かもわからん。


「戦国人物紹介」

■武田二十四将1
 
『甲陽軍鑑』や甲州流兵学などの影響を受けて、江戸時代に浮世絵や絵画などに多く描かれた。信玄を一将として描いているものや、数の異なるもの、信玄の子である勝頼を中心としたものもある。またそれぞれに異同があり、裏切り者とされる小山田信茂を除いたり(あるいは後ろ姿としたり)、山本勘助を除いたりしたものもある。

 信虎、信玄、勝頼に仕えた家臣が描かれているが、その活躍時期には約半世紀のずれがあり、全員が一堂に会したことはない。

・武田信繁 【たけだのぶしげ】 1525-61
 次郎、左馬助。左馬助の唐名(中国風の呼び名)である典厩(てんきゅう)で知られる。子信豊も典厩を称したので、古典厩ともいう。
 武田信虎の二男で信玄の弟。信虎は才気走ったところのある信玄よりも、信繁を寵愛し家督を継がせようとしたともいう。信虎が追放された後も信玄には重用された。疑り深さでは戦国一、二を争う信玄に仕えて補佐し続けたのだから、よほどの人物だったのだろう。 文武に秀で、信豊に与えた家訓は甲州法度の原型になったとも言われる。武田の副将格として江戸時代に至っても人気があった。朱子学者の室鳩巣は「まことの武将」と評している。真田昌幸は信繁にあやかって二男に同じ名前を付けている(幸村として有名)
 川中島の戦いで戦死したが、信玄のみならず謙信や他国の人々からもその死を惜しまれた。子信豊が跡を継いだが、武田家滅亡時に小諸城で謀殺された。



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・武田信廉 【たけだのぶかど】 1532?-82
 刑部少輔(ぎょうぶ(の)しょう(ゆう))。信虎の四男。信玄、信繁の同母弟。のちに出家して逍遥軒(しょうようけん)信綱と称す。
 信繁、その子信豊とともに一門衆。信濃高遠城主を務めた。武田家滅亡の際には一戦もせず、守備していた大島城を放棄して逃亡するが、捕らえられて殺された。
 画家としても知られ、信虎像、母大井夫人像などを残している。
 信玄に容姿が酷似していたため、信玄の影武者を務めたとされる。
 
意外と評価しています、武田信虎。上杉謙信における長尾為景や信長における信秀など、英雄と呼ばれる人物の陰には基礎を固めた父親の存在がありました。

「戦国人物紹介」

009 武田信虎 【たけだのぶとら】 1494-1574 (後編)
「暴君」として名高いのですが、内藤、馬場、山県ら家臣を手討ちにしたというのは家臣統制のために必要なことですし(信長の例を見るまでもない。ちなみにそれぞれの家は信玄の代に復興している)、妊婦の腹を生きたまま裂いたというのは中国の暴君伝説の引用でしょう。新たに政権を掌握した側が、旧政権の人間を悪人とするのはいまも昔も変わりません。ただ、信虎が追放されて甲斐の領民は喜んだという記録がありますから、もうからない戦争を繰り返して家臣や領民のひんしゅくを買っていたことはうかがえます。

信虎追放のクーデターの理由については諸説あります。信虎が晴信(信玄)を差し置いて、二男信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたため晴信派が起こしたという説。しかし、これはクーデター後に信繁が排斥されず、晴信の代に重用されたことからもやや考えづらいところがあります。

また、度重なる戦いで武田家臣、領民らに負担がかかったため、不満を募らせた家臣団が晴信を擁立したという見方もあります。たしかに、このクーデターでは板垣信方や甘利虎泰といった一派が晴信を擁立する形で動いています。晴信が主導するというよりもむしろ、家臣団の主導で起こったクーデターは、その後の晴信の行動にも少なからず制約を与え、彼ら家臣団の意向というものは、晴信と嫡男義信との間に駿河をめぐる外交路線の対立が起こった際にも再び登場してきます。

信玄や謙信といえども、家臣の生殺与奪を握るまでの絶対的な権力を握ることはできませんでした。領地と兵を持った家臣(在地領主、国人)の意向は無視できません。実際、家臣の統制に乗り出した信虎は追放されました。謙信も家臣の統率には苦労し、嫌気がさした謙信は出家すると言って出奔する騒動まで起こしています(計画的行動とも言われるが、本当に嫌気がさしたという説も有力)

信玄は侵略戦争を起こし、それに勝利し続けることで家臣の目を外に向けさせ、家臣の掌握に成功しました。しかし、本質的には融和、懐柔といった域を出ず、絶対的な権力を確立するには至りませんでした。信長とは違って最後まで本拠地を甲府から動かせなかったことは、みずからも在地領主的な存在から抜け出せなかったことにほかなりません。先祖からの領地、あるいはみずからが開発した領地を動くということ自体が困難な発想でした。

信長は常備兵を組織し、また秀吉や明智光秀、滝川一益ら領地を持たない層からも家臣を取り立てたため、家臣の掌握や本拠地の移動が可能となりました。これらは急速な領地拡大にともなう必然だったと言ってもいいかもしれません。



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早すぎた改革者だったのかもしれない。
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