忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

■川中島の戦い(第四回、1561年9月10日)

小説・講談的な脚色も強く、実態については不明な点も多い。濃霧の中の遭遇戦で両軍に多数の死傷者が出たとされるが、上杉軍は三ヶ月後には関東に出陣し、武田軍も西上野に出兵している。

最後まで戦場に残ったのは武田軍だが、信玄の弟典厩信繁、足軽大将山本勘助、初鹿野源五郎忠次、侍大将両角豊後守虎定、三枝守直ら名のある家臣が討ち死にし、上杉軍では重臣級の戦死がなかったことから、戦術的には上杉軍の勝利と言える。ただし、謙信は村上、小笠原など信濃の豪族の要請を受けて信玄との対決を決意したが、戦後、信濃の確保に成功したのは信玄であり、戦略的には武田家の勝利と言えよう。なお、「前半は上杉軍、後半は武田軍の勝ち」などという考え方(秀吉が言ったとされる)は合戦にはない。

さて、通説による戦いの推移である。

信玄は北信濃の抑えとして海津城(長野県長野市、旧松代町)を築き、高坂昌信を入れていた。1561年、謙信は8月14日に越後春日山を出発し、荷駄隊と兵五千を善光寺に置くと、残り一万三千の部隊を率いて妻女山に陣を構えた。妻女山は海津城の南方に当たり、謙信は敵陣に乗り込んだ形になる。信玄も昌信からの知らせを受けて甲府を出発、妻女山の謙信を迂回する形で最終的には29日に海津城に入った。お互い、退路を断つ格好になった。

両軍とも動かず、にらみ合いが続いたが、信玄の方が先にしびれを切らす。山本勘助(馬場信房ともいう)が「きつつき戦法」を提案。軍勢を二つに分け、一方が妻女山に夜討ちをかけ、川中島に出てきた上杉軍をもう一方が討つという作戦である。しかし謙信は山上から海津城を見て、炊事の煙がこれまでより多いことから、武田軍に動きがあることを察したという。妻女山には旗指物を立て、かがり火をたいて、上杉軍がいるように装わせると、一切の物音を立てることを禁じて下山し、夜間、千曲川を渡って川中島の八幡原に陣を敷いた。頼山陽の漢詩の一節、「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)」の場面である。

一方、裏をかかれた信玄。濃霧の中で上杉軍と遭遇し、不意を突かれた格好となった。上杉軍は車懸りの陣と言われるが、別に各部隊がドーナツ状に回転しながら戦っていたわけではない。上杉軍の陣が武田軍の陣に斜めに当たってしまい、次々と後続の新手が武田軍にかかっていったため、このように言われているようである。信玄の弟信繁、山本勘助らが次々と戦死。一時は本陣まで攻め込まれる。このときに有名な両雄の一騎討ちがあったと伝えられている。劣勢であった武田軍だが、妻女山に向かった別働隊が戻ってくると、息を吹き返す。これを見て謙信は撤退を決意、善光寺方面へ逃れる。武田軍も深追いはせず、両軍の戦いは終わった。
 
PR
高校野球が始まりましたが、野球にしろ、サッカーにしろ、合戦にしろ、限られた戦力をいかに効率よく運用するか、というところに戦術やセオリー(理論)が発生する余地があります。また、目には見えづらいのですが、流れや勢い、といったものも存在します。

「戦国人物紹介」
 
■武田信玄2

武田家の家督を継いだ信玄は狙いを信濃諏訪に定める。そこには妹禰々御料人(ねねごりょうにん)が嫁いでいた諏訪頼重がおり、同盟関係にあったが、信玄は頼重を攻めるとこれを捕らえてやがては殺してしまう。さらに頼重の娘(諏訪御料人)が美貌と知ると側室にしてしまう。滅亡した敵方の娘を側室にすることに家臣も眉をひそめたという。諏訪御料人との間にもうけたのが諏訪四郎、のちの武田勝頼であり、武田家の実質的な最後の当主である。頼重の怨念が武田家にたたったとも言われる。

諏訪攻め後、信濃攻めを続けた信玄だが、1548年、上田原の戦いで村上義清に大敗し、板垣信方、甘利虎泰らを失う。義清に呼応して小笠原長時が挙兵するが、これを塩尻峠の戦いで破ると、南信濃の小笠原領を制圧して形勢を挽回する。しかし、1550年に義清に再度敗れる。信玄は砥石城(戸石城)を包囲したが、義清は降伏した武将に化けて武田軍の中に紛れ込み、機を見て蜂起、混乱する武田軍は散々に敗れた(戸石崩れ)。信玄が生涯で敗れたのは対村上義清戦の二度だけと言われる。その後、真田幸隆の調略によって村上家を内部から切り崩し、戸石城を陥落させることに成功する。

信濃から小笠原長時、村上義清などを追うが、彼らは越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ったため、謙信との対決を招くことになる。世に言う川中島の戦いであるが、通説では1553年から1564年までの十二年間で五度戦ったことになっている。もっとも有名なのが両雄の一騎討ちで知られる1561年の第四回の戦いで、別に八幡原の戦いとも言われる。




Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

どういうイメージなんだろ・・・。
 
「戦国人物紹介」

■武田二十四将5

1541年の信虎追放のクーデターの陰の主役となった人々。甘利、板垣は武田家臣の最高位である「両職」を務めたとされます。信玄にとっては頭の上がらない「恩人」ですが、逆に言うと信玄の権力を制限する可能性のあった人々でもあります。甘利、板垣が村上義清との戦いで戦死すると、子孫は二人ほど重用されずに終わります。

・甘利虎泰 【あまりとらやす】 ?-1548
備前守。甲斐巨摩郡甘利郷の領主。譜代家老衆。甘利氏は武田信義の子一条忠頼の子甘利行忠を祖とする。武勇で知られたが、1548年、村上義清との上田原の戦いで戦死。
子の昌忠(左衛門尉)が継いで譜代家老衆百騎持ちとなるが、1564年に落馬して死去したという。昌忠の弟信康が継いだが、1575年の長篠の戦いで戦死した。

・板垣信方 【いたがきのぶかた】 1485-1548
信形とも。駿河守。板垣氏は武田信義の子板垣兼信を祖とする。信玄の傅役(もりやく)。
甘利虎泰とともに信虎追放の立役者となり、以後も若い信玄を補佐する。信濃諏訪氏を破ると諏訪郡代となり上原城代を務めたが、1548年、村上義清との上田原の戦いで戦死、若い信玄を嘆かせた。
子信憲が継いで父と同じ「両職」についたというが、不行跡により蟄居させられて殺された。このため板垣家は一時断絶する。のち信憲の子が乾(いぬい)正信を称して山内一豊に仕える。主君とともに土佐に移った正信の子孫が乾退助こと板垣退助である。



© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

信玄を擁立、傀儡にする可能性もあったが、戦死。子は殺されて板垣家は消されたが、子孫に板垣退助が出る。

・飯富虎昌 【おぶとらまさ】 1504?-65
兵部少輔。飯富兵部(ひょうぶ)と言えばこの人。山県昌景(飯富源四郎)の兄で赤備え(あかぞなえ)の創始者としても知られる。
信虎・信玄の二代に仕えた譜代家老衆。合戦では常に先陣を務めたといわれ、川中島の戦いでも妻女山への別働隊の主力となっている。信玄の嫡子義信の傅役となるまで重用されたが、1565年、義信に謀反の嫌疑がかけられると責任を取って自害し、飯富家は断絶した。この事件については諸説あるが、信玄の駿河侵攻を前に親駿河派を粛清したとの見方が多い。
赤備えは彼の死後、弟の山県昌景に、そしてのちに徳川家臣の井伊直政や武田家旧臣である真田昌幸の子幸村に受け継がれていく。



Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

ちなみに赤備えにもいくつか種類があるのをご存じだろうか。

赤備えというと濃い目の赤が多いのだが、大坂の陣の幸村の赤備えは鮮やかな真紅だったという。
 
「戦国人物紹介」

■武田信玄1


武田二十四将の紹介はまだまだ続きますが、武田家の人物紹介も中盤というところ、ここで御屋形様に登場いただきましょう。

実はこの人に対する私の評価は世間での評価ほど高くはない。それでも一般の戦国大名よりははるかに高いのだが、信長を上回ることはない。

010 武田信玄 【たけだしんげん】 1521-73

(概説)
俗名は晴信。昔の某ゲームでは「戦国最強軍団総帥」などとされていたが、買い被られすぎである。ただ、人真似(猿真似?)はうまく、その点では器用だったと言えよう。信濃の盆地に点々とする豪族を一つ一つ潰していった先が越後の上杉謙信。まだゲームの途中なのにいきなりババを引いたようなものである。しかもお互いを最大の好敵手と見たのが運の尽き。本人たちが決勝戦をしていると思った隙に信長はシードで天下に上ってしまった。それなら自分も、と上洛を目指す。芸術的と言えるほど完成された軍事手腕によって徳川家康を叩き潰すも、病により野望は遂げられず。疑り深い性格で、後世には父親の追放と子殺しをしたという悪名を、勝頼には自分以外には服従しない家臣を残した。だが、武田遺臣を多く召し抱えた徳川家が後に天下を取ったので、信玄自身が悪く書かれることは少ない。


さて、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」というのが信玄の歌として伝えられている。たしかに信玄の本拠地は甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館であり、城(といっても当時の城は天守閣や石垣があったわけではない)は持たなかったように思われているが、万一の時の「詰めの城」として、要害山城という城があった。信玄の父、信虎が今川氏の侵攻に遭った際に、正室大井の方をこの城に避難させた。そのときに生まれたのが信玄である。幼名は太郎(または勝千代)、元服して晴信と名乗る。「晴」の字は将軍足利義晴から一字を賜ったものとされる(ただし、以後「信玄」で通す)

初陣は元服直後の1536年、十五歳のときの信濃佐久郡海ノ口(うんのくち)城攻めと言われる。父信虎はこの城を落とせず、殿軍(退却時に最後尾にあって敵の追撃を防ぐ部隊)を務めた信玄が、武田軍の退却に油断していた敵の隙をついて夜のうちに城内に攻め入り、家臣の教来石(きょうらいし)民部(のちの馬場信房)が城主平賀源心(玄信、一説に江戸時代の発明家平賀源内の先祖とも)の首を挙げたという。信虎は奇策を弄した勝利を喜ばなかったというが、そもそもあまりにできすぎた初陣話に疑問を呈す見方も多い。

1541年、信虎をクーデターによって追放すると、武田家の家督を継承する。
 
■外伝

馬場美濃守信房(信春)は長篠の戦いで殿軍となり、勝頼の退却を見届けると、戦場に留まって戦死しますが、織田方の記録である『信長公記』にも、「中にも馬場美濃守手前の働(き)比類なし」と書かれています。また後日、武田信玄の逸話のときに紹介しますが、信玄との対話の相手としてよく出てくるのが馬場美濃守(信房)なんですね。武田家臣の中では当時から後世に至るまで有名人だったようです。

そんな馬場美濃守が、若い人たちにどうしたら功名(手柄)を立てることができるか語った逸話があります。

その者が剛勇か臆病かによって功名を立てるか不覚を取るかということはあるが、一つには心掛けもある。わしは若い頃から五つの目安を立てているが、これを立ててからはあまり不覚を取ったことはない。

一つには、敵より味方が勇ましく見えるとき(自軍が優勢なとき)は先を争って戦うが、そうでないときに一人で戦っては犬死するか、味方から抜け駆け(の罪)と見なされるだろう。
二つには、場数を踏んだ味方の武士と親しくし、その人を手本として、その人に負けないように戦うこと。
三つには、敵の兜の吹き返しが下を向いていて、旗指物も動かなければ、強い敵だと思うこと。
四つには、槍の穂先が上がっている敵は弱く、下がっている敵は強い。(この後も続くが、要するに、下っ端の兵士ではなく重要人物を見定めて戦うこと)
五つには、敵の勢いが盛んなときは受けて耐え、衰えたときに一気に攻撃すること。

現代にも通じるものがあるかもしれません。

さて、馬場美濃守の駿河攻めのときの逸話で思い出すのが、楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)の蕭何(しょうか、?-前193)。韓信、張良とともに劉邦の三傑の一人で、漢ができると丞相になった人です。
項羽や劉邦がまだ秦と戦っていたころ、劉邦が秦の都咸陽への一番乗りを果たしますが、蕭何は兵士の略奪を止めさせ、ただ一人、秦の文書(法律書や歴史書)だけを持ち帰ります。項羽が来ると咸陽は略奪、破壊を受けますが、蕭何のおかげで秦の文書は守られ、これらはのちの漢の国家づくりの基礎として貢献することになります。駿河にも後世に伝えるべき貴重な文書や宝物があったろうに・・・。



Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

いくらなんでもこの画像はないと思うんだ・・・;;
 
[28]  [29]  [30]  [31]  [32]  [33]  [34]  [35]  [36]  [37]  [38
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]