兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
■武田二十四将8
・多田満頼 【ただみつより】 ?-1563
淡路守。昌澄。摂津源氏の一族多田源氏という。美濃で生まれるが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄にも仕えた。北条氏の河越夜戦のときにも書いたが、夜襲は敵味方の識別、および地形の把握が困難なため高度な技術を必要とする。満頼はその夜襲のスペシャリストとして知られた。
死後は子常昌が継ぐが長篠で戦死。常昌の弟昌俊が継いだ。昌俊の死後、子の昌綱が家康に仕え、のち徳川義直(尾張)の傅役となった。
・横田高松 【よこたたかまつ】 ?-1550
備中守。近江佐々木氏の一族という。近江の出身というが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄の信濃攻めで活躍するが、村上義清との砥石城の戦いで戦死。信玄はその死を嘆き、「武辺の者になろうとするならば、原美濃(虎胤)、横田備中のようになれ」と言ったという。
原虎胤の嫡男泰景が婿養子となって継いだが、長篠の戦いで戦死。子の尹松が跡を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家に仕えて旗本となった。
・三枝守友 【さえぐさもりとも】 1537-75
勘解由(かげゆ)左衛門尉。奥近習を経て侍大将となる。1570年の駿河花沢城攻めで一番槍の武功を挙げ、信玄から感状を受ける。また山県昌景にも気に入られ、その娘をめとり、のちの昌景の猶子(相続権のない養子)となり、山県善右衛門と改めた。
長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備するが、酒井忠次の率いる別働隊の攻撃を受けて戦死する。武田家滅亡後、一族は徳川家に仕える。
・土屋昌次 【つちやまさつぐ】 1545-75
右衛門尉。昌続。奥近習を経て侍大将となる。三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。長篠の戦いでは敵陣に突撃するが銃撃を浴びて戦死。
弟の昌恒が跡を継ぐ。武田家滅亡の際は勝頼に従い、天目山で織田方の滝川一益隊と戦って戦死。その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と称された。
子孫はのちに常陸土浦藩主となった。土屋政直は老中となり、八代将軍吉宗の擁立に貢献があった人物の一人。武田旧臣では真田家に次いで出世した一族と言えよう。
■武田二十四将8
・多田満頼 【ただみつより】 ?-1563
淡路守。昌澄。摂津源氏の一族多田源氏という。美濃で生まれるが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄にも仕えた。北条氏の河越夜戦のときにも書いたが、夜襲は敵味方の識別、および地形の把握が困難なため高度な技術を必要とする。満頼はその夜襲のスペシャリストとして知られた。
死後は子常昌が継ぐが長篠で戦死。常昌の弟昌俊が継いだ。昌俊の死後、子の昌綱が家康に仕え、のち徳川義直(尾張)の傅役となった。
・横田高松 【よこたたかまつ】 ?-1550
備中守。近江佐々木氏の一族という。近江の出身というが、甲斐に来て信虎に仕え足軽大将となる。信玄の信濃攻めで活躍するが、村上義清との砥石城の戦いで戦死。信玄はその死を嘆き、「武辺の者になろうとするならば、原美濃(虎胤)、横田備中のようになれ」と言ったという。
原虎胤の嫡男泰景が婿養子となって継いだが、長篠の戦いで戦死。子の尹松が跡を継ぎ、武田家滅亡後は徳川家に仕えて旗本となった。
・三枝守友 【さえぐさもりとも】 1537-75
勘解由(かげゆ)左衛門尉。奥近習を経て侍大将となる。1570年の駿河花沢城攻めで一番槍の武功を挙げ、信玄から感状を受ける。また山県昌景にも気に入られ、その娘をめとり、のちの昌景の猶子(相続権のない養子)となり、山県善右衛門と改めた。
長篠の戦いでは長篠城を監視する鳶ノ巣山砦を守備するが、酒井忠次の率いる別働隊の攻撃を受けて戦死する。武田家滅亡後、一族は徳川家に仕える。
・土屋昌次 【つちやまさつぐ】 1545-75
右衛門尉。昌続。奥近習を経て侍大将となる。三方ヶ原の戦いで戦功を挙げる。長篠の戦いでは敵陣に突撃するが銃撃を浴びて戦死。
弟の昌恒が跡を継ぐ。武田家滅亡の際は勝頼に従い、天目山で織田方の滝川一益隊と戦って戦死。その奮戦ぶりは「片手千人斬り」と称された。
子孫はのちに常陸土浦藩主となった。土屋政直は老中となり、八代将軍吉宗の擁立に貢献があった人物の一人。武田旧臣では真田家に次いで出世した一族と言えよう。
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「戦国人物紹介」
■武田二十四将7
信虎時代、信虎から一字を賜った将がいます。他国から来た彼らはおもに足軽大将として活躍しますが、信虎が武田家独自の家臣を編成しようとした試みとも考えられます。
・小幡虎盛 【おばたとらもり】 1491-1561
小畠姓。孫十郎、山城守。遠江出身だが、甲斐に赴き武田信虎に仕えて足軽大将となり活躍、信虎から一字を賜り虎盛と名乗る。芦毛の馬が返り血で栗毛に見えたほどの戦ぶりで「鬼虎」と称される。三十六回の戦いに参加し、もらった感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)も三十六枚、四十一ヶ所の傷を被ったという豪の者。晩年は高坂昌信の副将として海津城に在番するが、第四回の川中島の戦いの直前に死去した。遺言は「よくみのほどをしれ」
子の小幡昌盛(1534-1582、孫次郎、又兵衛、豊後守)も海津城番を務めるが、1582年、武田家滅亡の直前に病死。昌盛の子が兵学者として知られる小幡勘兵衛(景憲)。勘兵衛は徳川家に仕え、大坂の陣では大坂城に入って徳川方に豊臣家の情報を伝えた。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟を抱えた。また『甲陽軍鑑』の編者ともいう。
・原虎胤 【はらとらたね】 1497-1564
美濃守。もと下総千葉氏の家臣。のち信虎、信玄に仕える。足軽大将として活躍し、三十八回の戦いに参加し、向こう傷は五十三ヶ所、その武勇から「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれ、信虎から一字を賜って虎胤と名乗る。1521年の飯田河原の戦いで今川氏の家臣福島正成(北条綱成の父とされる)を討ち取ったと言われる。
信玄が家督を継いだときにはすでに老練の域に達しており、信濃攻めに貢献した。1553年、虎胤の信仰する日蓮宗徒と浄土宗徒が争うことがあり、信玄は虎胤に改宗を迫ったが、受け入れずに信玄のもとを去り、北条氏康に仕えた。翌年、善徳寺の会見(甲相駿三国同盟が結ばれた)で帰参する。1559年、信玄が出家すると、虎胤も剃髪し、清岩と称した。川中島の戦いのときには引退していた。

Copyright © 2010 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
モーニングスター(?)って・・・古代ローマのコロシアムで戦う奴隷みたいw
・原昌胤 【はらまさたね】 1531-75
隼人佐(はやとのすけ)。虎胤とは別の原氏。信玄、勝頼に仕え、陣馬奉行を務める。地理に明るく、信玄にも戦場での布陣の的確さを賞された。譜代家老衆となり百二十騎持ちとされる。山県昌景とともに家中最高の「職」を務め、軍政面で活躍。武田家の竜朱印状の奏者として名が見える。
職業柄、戦闘に直接参加することは少なかったが、1575年の長篠の戦いでは手勢を率いて敵陣に突入して戦死する。
■おまけコラム
方向音痴という人がいますが、逆に地理に強い人というのもいます。私もどちらかというとそのタイプで、カーナビがない時代、地図一枚で車を運転して旅行していました。地図を見るとだいたいの地理が頭の中に入ってしまうんですね。
原昌胤は「山中の道のないところを一人分け入った」ということで、道なき道まで切り開く能力を持っていたようです。
三国志だとこの人、鄧艾(とうがい、字が出るかな?)。三国時代、魏の将ですが、吃音(どもり)というハンデがありながら、屯田や土地開発で功績を上げ、司馬懿に評価されて用いられます。また任地の地図を作ったとあり、地理を見る能力に優れていたようです。
蜀侵攻では要衝の剣閣を避けて間道を通り、主力より先に劉禅を降伏させます。謀反を疑われて殺されてしまうのが惜しいところです。
■武田二十四将7
信虎時代、信虎から一字を賜った将がいます。他国から来た彼らはおもに足軽大将として活躍しますが、信虎が武田家独自の家臣を編成しようとした試みとも考えられます。
・小幡虎盛 【おばたとらもり】 1491-1561
小畠姓。孫十郎、山城守。遠江出身だが、甲斐に赴き武田信虎に仕えて足軽大将となり活躍、信虎から一字を賜り虎盛と名乗る。芦毛の馬が返り血で栗毛に見えたほどの戦ぶりで「鬼虎」と称される。三十六回の戦いに参加し、もらった感状(戦場での功績を賞して与えられる書状)も三十六枚、四十一ヶ所の傷を被ったという豪の者。晩年は高坂昌信の副将として海津城に在番するが、第四回の川中島の戦いの直前に死去した。遺言は「よくみのほどをしれ」
子の小幡昌盛(1534-1582、孫次郎、又兵衛、豊後守)も海津城番を務めるが、1582年、武田家滅亡の直前に病死。昌盛の子が兵学者として知られる小幡勘兵衛(景憲)。勘兵衛は徳川家に仕え、大坂の陣では大坂城に入って徳川方に豊臣家の情報を伝えた。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟を抱えた。また『甲陽軍鑑』の編者ともいう。
・原虎胤 【はらとらたね】 1497-1564
美濃守。もと下総千葉氏の家臣。のち信虎、信玄に仕える。足軽大将として活躍し、三十八回の戦いに参加し、向こう傷は五十三ヶ所、その武勇から「鬼美濃」「夜叉美濃」と呼ばれ、信虎から一字を賜って虎胤と名乗る。1521年の飯田河原の戦いで今川氏の家臣福島正成(北条綱成の父とされる)を討ち取ったと言われる。
信玄が家督を継いだときにはすでに老練の域に達しており、信濃攻めに貢献した。1553年、虎胤の信仰する日蓮宗徒と浄土宗徒が争うことがあり、信玄は虎胤に改宗を迫ったが、受け入れずに信玄のもとを去り、北条氏康に仕えた。翌年、善徳寺の会見(甲相駿三国同盟が結ばれた)で帰参する。1559年、信玄が出家すると、虎胤も剃髪し、清岩と称した。川中島の戦いのときには引退していた。
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モーニングスター(?)って・・・古代ローマのコロシアムで戦う奴隷みたいw
・原昌胤 【はらまさたね】 1531-75
隼人佐(はやとのすけ)。虎胤とは別の原氏。信玄、勝頼に仕え、陣馬奉行を務める。地理に明るく、信玄にも戦場での布陣の的確さを賞された。譜代家老衆となり百二十騎持ちとされる。山県昌景とともに家中最高の「職」を務め、軍政面で活躍。武田家の竜朱印状の奏者として名が見える。
職業柄、戦闘に直接参加することは少なかったが、1575年の長篠の戦いでは手勢を率いて敵陣に突入して戦死する。
■おまけコラム
方向音痴という人がいますが、逆に地理に強い人というのもいます。私もどちらかというとそのタイプで、カーナビがない時代、地図一枚で車を運転して旅行していました。地図を見るとだいたいの地理が頭の中に入ってしまうんですね。
原昌胤は「山中の道のないところを一人分け入った」ということで、道なき道まで切り開く能力を持っていたようです。
三国志だとこの人、鄧艾(とうがい、字が出るかな?)。三国時代、魏の将ですが、吃音(どもり)というハンデがありながら、屯田や土地開発で功績を上げ、司馬懿に評価されて用いられます。また任地の地図を作ったとあり、地理を見る能力に優れていたようです。
蜀侵攻では要衝の剣閣を避けて間道を通り、主力より先に劉禅を降伏させます。謀反を疑われて殺されてしまうのが惜しいところです。
■三方ヶ原の戦い(1572年12月22日)
1572年10月、信玄は西上作戦を開始する。上洛を目指していたかどうかには諸説あるが、順調であればそのまま上洛を目指して織田方と対決、不調であれば徳川領への侵略戦になるわけで、このあたりは柔軟な対応を考えていただろう。
12月、信玄は二ヶ月の攻囲の末に遠江二俣城を落とすと、家康の居城浜松城をかすめるように西へ向かった。家康を誘い出す作戦である。これを見た家康も受けて立った。武田軍の素通りを許せば家康の威信は地に落ちる。いまは徳川に味方している豪族たちもいつ武田家に寝返るかわからないのである。
家康は三方ヶ原の台地を過ぎ祝田(ほうだ)の坂を下る武田軍を追撃しようとしたが、家康の出陣を知った武田軍は急速反転(家康の出陣を予想して、先鋒から本陣まで逆にして行軍していたともいう)、三方ヶ原の台地に魚鱗の陣を敷いて待ちかまえた。一方の徳川軍は武田軍を包囲すべく鶴翼の陣を敷いたが、いかんせん兵力に大きな差があった。武田軍は二万五千、徳川軍は織田家からの援軍三千を合わせても一万一千、倍以上の開きがあった。
いざ戦闘が開始されると序盤は徳川軍が優勢だったが、重厚な陣を敷く武田軍には余裕があった。頃合いを見て二陣を繰り出すと、兵力に劣る徳川軍はたまらずに潰走を始めた。夕闇の中、追撃を行う武田軍、家康も逃げに逃げた。途中で身代わりとなったのが夏目吉信や鈴木久三郎といった家臣たち。家康は恐怖のあまり脱糞して浜松城内に逃げ込んだという。この戦いで徳川軍は千人(二千人とも)の死傷者を出して大敗、一方の武田軍の死傷者はわずか二百人(四百人とも)だったという。
浜松城に逃げ帰った家康は、城門を開き(そうしないと徳川軍の兵が収容できない)、かがり火をたかせた。いわゆる「空城の計」を行ったと言われる。家康は湯漬けをかきこむと、いびきをかいて寝てしまったという。家康の大胆さというよりは、破れかぶれといった感である。武田軍も浜松城攻めに時間を費やすことはせず、さらに西へと向かった。
三方ヶ原の戦いは家康唯一の負け戦、という言い方もされる。しかし、あまり知られていないが家康は三河一向一揆との戦いで苦戦しており、秀吉との小牧長久手の戦いでも最終的には屈服を余儀なくされている。戦に勝っても政治で負ければそれは負けなのである。三方ヶ原以外常勝だったということはない。
戦後、馬場美濃守は信玄に報告している。「徳川軍の死体を見ると、北に向かったものはみなうつ伏せ、南に向かったものはみなあお向けになっている。いずれも討ち死にしたもので、逃げた兵は一人も見当たらない。さすがは三河武士だ」と、これは後世の脚色だろうが、徳川軍が寡兵ながら勇猛果敢に戦ったことは事実である。そして家康自身、「あの信玄と戦った」という経験は貴重な財産となった。
1572年10月、信玄は西上作戦を開始する。上洛を目指していたかどうかには諸説あるが、順調であればそのまま上洛を目指して織田方と対決、不調であれば徳川領への侵略戦になるわけで、このあたりは柔軟な対応を考えていただろう。
12月、信玄は二ヶ月の攻囲の末に遠江二俣城を落とすと、家康の居城浜松城をかすめるように西へ向かった。家康を誘い出す作戦である。これを見た家康も受けて立った。武田軍の素通りを許せば家康の威信は地に落ちる。いまは徳川に味方している豪族たちもいつ武田家に寝返るかわからないのである。
家康は三方ヶ原の台地を過ぎ祝田(ほうだ)の坂を下る武田軍を追撃しようとしたが、家康の出陣を知った武田軍は急速反転(家康の出陣を予想して、先鋒から本陣まで逆にして行軍していたともいう)、三方ヶ原の台地に魚鱗の陣を敷いて待ちかまえた。一方の徳川軍は武田軍を包囲すべく鶴翼の陣を敷いたが、いかんせん兵力に大きな差があった。武田軍は二万五千、徳川軍は織田家からの援軍三千を合わせても一万一千、倍以上の開きがあった。
いざ戦闘が開始されると序盤は徳川軍が優勢だったが、重厚な陣を敷く武田軍には余裕があった。頃合いを見て二陣を繰り出すと、兵力に劣る徳川軍はたまらずに潰走を始めた。夕闇の中、追撃を行う武田軍、家康も逃げに逃げた。途中で身代わりとなったのが夏目吉信や鈴木久三郎といった家臣たち。家康は恐怖のあまり脱糞して浜松城内に逃げ込んだという。この戦いで徳川軍は千人(二千人とも)の死傷者を出して大敗、一方の武田軍の死傷者はわずか二百人(四百人とも)だったという。
浜松城に逃げ帰った家康は、城門を開き(そうしないと徳川軍の兵が収容できない)、かがり火をたかせた。いわゆる「空城の計」を行ったと言われる。家康は湯漬けをかきこむと、いびきをかいて寝てしまったという。家康の大胆さというよりは、破れかぶれといった感である。武田軍も浜松城攻めに時間を費やすことはせず、さらに西へと向かった。
三方ヶ原の戦いは家康唯一の負け戦、という言い方もされる。しかし、あまり知られていないが家康は三河一向一揆との戦いで苦戦しており、秀吉との小牧長久手の戦いでも最終的には屈服を余儀なくされている。戦に勝っても政治で負ければそれは負けなのである。三方ヶ原以外常勝だったということはない。
戦後、馬場美濃守は信玄に報告している。「徳川軍の死体を見ると、北に向かったものはみなうつ伏せ、南に向かったものはみなあお向けになっている。いずれも討ち死にしたもので、逃げた兵は一人も見当たらない。さすがは三河武士だ」と、これは後世の脚色だろうが、徳川軍が寡兵ながら勇猛果敢に戦ったことは事実である。そして家康自身、「あの信玄と戦った」という経験は貴重な財産となった。
「戦国人物紹介」
■武田信玄3
上杉謙信との戦いを終えて信濃を確保した信玄だが、これで北は行き止まりとなった。残るは謙信の絶対国防圏である越後である。ここで信玄は一転して南に目を向けることになる。信玄は駿河・遠江を領す今川家、関東の北条家と三国同盟を結んでいたが、今川家は1560年に義元が桶狭間で戦死すると、子氏真の代となっていた。しかし氏真は文弱の暗君とされ、三河の家康の攻撃にさらされていた。
今川領に狙いを定めた信玄は、まず長男義信(義元の娘を正室としていた)ら親駿河派を粛清して家中の意見を統一する。また家康と密約を結んで今川領を分け取りにすることにした。このことは家康の背後にいる信長とつながりを持つことにもなった。武田家と織田家は終始敵対関係にあったわけではない。
1568年、信玄は今川家との三国同盟を破棄して駿河に侵攻を開始、事前の調略が効を奏し、さしたる戦いもないまま駿府を占領する。この駿河攻めに黙っていなかったのが、三国同盟を結んでいた北条氏康である。仇敵である謙信と電撃的に越相同盟(越後と相模)を締結すると、今川救援の軍を発する。信玄は北条軍に苦しむもなんとか駿河を制圧。さらに家康との密約を破棄して遠江にも侵攻を開始する。
1571年、北条氏康が死去すると、子の氏政は氏康の遺言に従って信玄と和睦。背後の憂いを断った信玄は西上作戦(この段階で上洛を企図したものかは諸説ある)を開始。1572年、三方ヶ原の戦いで家康を一蹴する。しかし、翌年三河野田城攻めの最中に発病し、甲斐への帰国を開始するが、帰途、信濃伊那の駒場(こまんば)で死去した。
前回の諏訪家(義理の兄弟)も含めて、信玄にとって同盟などは一時の方便にすぎず、敵(今川)の敵(徳川)だから、いまだけ仲良くしておけって感じですが、結ぶ方(徳川)もその次は自分というのをわかっていて、信玄と手を結んで勢力を拡大するわけですから、信玄だけを責めることはできません。
■武田信玄3
上杉謙信との戦いを終えて信濃を確保した信玄だが、これで北は行き止まりとなった。残るは謙信の絶対国防圏である越後である。ここで信玄は一転して南に目を向けることになる。信玄は駿河・遠江を領す今川家、関東の北条家と三国同盟を結んでいたが、今川家は1560年に義元が桶狭間で戦死すると、子氏真の代となっていた。しかし氏真は文弱の暗君とされ、三河の家康の攻撃にさらされていた。
今川領に狙いを定めた信玄は、まず長男義信(義元の娘を正室としていた)ら親駿河派を粛清して家中の意見を統一する。また家康と密約を結んで今川領を分け取りにすることにした。このことは家康の背後にいる信長とつながりを持つことにもなった。武田家と織田家は終始敵対関係にあったわけではない。
1568年、信玄は今川家との三国同盟を破棄して駿河に侵攻を開始、事前の調略が効を奏し、さしたる戦いもないまま駿府を占領する。この駿河攻めに黙っていなかったのが、三国同盟を結んでいた北条氏康である。仇敵である謙信と電撃的に越相同盟(越後と相模)を締結すると、今川救援の軍を発する。信玄は北条軍に苦しむもなんとか駿河を制圧。さらに家康との密約を破棄して遠江にも侵攻を開始する。
1571年、北条氏康が死去すると、子の氏政は氏康の遺言に従って信玄と和睦。背後の憂いを断った信玄は西上作戦(この段階で上洛を企図したものかは諸説ある)を開始。1572年、三方ヶ原の戦いで家康を一蹴する。しかし、翌年三河野田城攻めの最中に発病し、甲斐への帰国を開始するが、帰途、信濃伊那の駒場(こまんば)で死去した。
前回の諏訪家(義理の兄弟)も含めて、信玄にとって同盟などは一時の方便にすぎず、敵(今川)の敵(徳川)だから、いまだけ仲良くしておけって感じですが、結ぶ方(徳川)もその次は自分というのをわかっていて、信玄と手を結んで勢力を拡大するわけですから、信玄だけを責めることはできません。
「戦国人物紹介」
■武田二十四将6
・真田幸隆 【さなだゆきたか】 1513-74
小太郎、弾正忠、一徳斎。徳川キラー昌幸の父。信之、幸村(信繁)の祖父。
信濃の豪族だが、村上義清の攻撃を受けて上野箕輪城主の長野氏のもとに逃れる。1544年、信玄に招かれてその配下となる。信玄は義清に二度敗れるが、幸隆は謀略をもって村上方の砥石城を落とし、義清を越後に追う。信玄の西上作戦の際は信濃に留まる。信玄の死の翌年に死去。

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これはまあイメージに近いかな・・・。
・真田信綱 【さなだのぶつな】 1537-75
源太左衛門尉。幸隆の長男。信玄に仕え、信濃先方衆として上杉軍への備えとなる。川中島の戦いでは妻女山への別働隊に加わるという。信玄の西上作戦にも従い、三方ヶ原の戦いで活躍する。幸隆の死後は家督を継いで勝頼に仕えた。長篠の戦いで弟昌輝とともに戦死しため、真田家の家督は弟昌幸が継いだ。
・山本勘助 【やまもとかんすけ】 1493?-1561
菅助(菅介)。晴幸。出家して道鬼。一説に「山勘」の語源。信玄の軍師として知られ、NHKの大河ドラマにも登場したが、『甲陽軍鑑』ほかいくつかの史料にしか名が現れないことから、かつては実在自体が疑われていた。いまも経歴については不明な部分が多い。
『甲陽軍鑑』では三河牛窪の出身で、築城や布陣に優れていたという。しかし、容貌魁偉(片目な上に手足も不自由であったという)ために今川家に仕官したが用いられず、のちに信玄に仕えることになる。信玄に仕えると、諏訪家から諏訪御料人を迎えるのに功績があったという(信玄が滅ぼした敵方の娘として、家臣たちは側室に迎えることに反対していた)。
足軽大将として、また築城の名手として、信玄の信濃攻めに貢献したが、第四回の川中島の戦いで「きつつき戦法」を謙信に看破され、責任を感じて上杉軍に突撃、戦死する。

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■今後の予定
・武田信玄3
・三方ヶ原の戦い
・武田二十四将7 小幡虎盛、原虎胤、原昌胤
・武田二十四将8 多田満頼、横田高松、三枝守友、土屋昌次
・武田信玄4 領国統治
・武田信玄5 合理主義
・武田信玄6 風林火山
・武田信玄7
・011 秋山信友
・012 小山田信茂
・013 穴山信君(梅雪)
・014 木曾義昌
・015 武田勝頼
どれだけ武田家で書くのかという・・・そんなに好きでもないんだけどw 好き嫌いと評価はおのずと別のものですけどね。
■武田二十四将6
・真田幸隆 【さなだゆきたか】 1513-74
小太郎、弾正忠、一徳斎。徳川キラー昌幸の父。信之、幸村(信繁)の祖父。
信濃の豪族だが、村上義清の攻撃を受けて上野箕輪城主の長野氏のもとに逃れる。1544年、信玄に招かれてその配下となる。信玄は義清に二度敗れるが、幸隆は謀略をもって村上方の砥石城を落とし、義清を越後に追う。信玄の西上作戦の際は信濃に留まる。信玄の死の翌年に死去。
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これはまあイメージに近いかな・・・。
・真田信綱 【さなだのぶつな】 1537-75
源太左衛門尉。幸隆の長男。信玄に仕え、信濃先方衆として上杉軍への備えとなる。川中島の戦いでは妻女山への別働隊に加わるという。信玄の西上作戦にも従い、三方ヶ原の戦いで活躍する。幸隆の死後は家督を継いで勝頼に仕えた。長篠の戦いで弟昌輝とともに戦死しため、真田家の家督は弟昌幸が継いだ。
・山本勘助 【やまもとかんすけ】 1493?-1561
菅助(菅介)。晴幸。出家して道鬼。一説に「山勘」の語源。信玄の軍師として知られ、NHKの大河ドラマにも登場したが、『甲陽軍鑑』ほかいくつかの史料にしか名が現れないことから、かつては実在自体が疑われていた。いまも経歴については不明な部分が多い。
『甲陽軍鑑』では三河牛窪の出身で、築城や布陣に優れていたという。しかし、容貌魁偉(片目な上に手足も不自由であったという)ために今川家に仕官したが用いられず、のちに信玄に仕えることになる。信玄に仕えると、諏訪家から諏訪御料人を迎えるのに功績があったという(信玄が滅ぼした敵方の娘として、家臣たちは側室に迎えることに反対していた)。
足軽大将として、また築城の名手として、信玄の信濃攻めに貢献したが、第四回の川中島の戦いで「きつつき戦法」を謙信に看破され、責任を感じて上杉軍に突撃、戦死する。
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■今後の予定
・武田信玄3
・三方ヶ原の戦い
・武田二十四将7 小幡虎盛、原虎胤、原昌胤
・武田二十四将8 多田満頼、横田高松、三枝守友、土屋昌次
・武田信玄4 領国統治
・武田信玄5 合理主義
・武田信玄6 風林火山
・武田信玄7
・011 秋山信友
・012 小山田信茂
・013 穴山信君(梅雪)
・014 木曾義昌
・015 武田勝頼
どれだけ武田家で書くのかという・・・そんなに好きでもないんだけどw 好き嫌いと評価はおのずと別のものですけどね。