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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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武田信玄も今回で完結。前のブログも含めて、一人の人物で7回は最多ですw

これを超えられるのは、信長・秀吉・家康までないかな?

「戦国人物紹介」

■武田信玄7

「歴史にifを持ちこむことはタブー」と言われます。たしかに、「こうだったら、ああしていれば」という「たられば」は歴史に限らず、スポーツなどでも禁物です。それはすでに結果が出ているからですが、その結果に至るまでにはいくつかの選択肢があって、選ぶ方はそれが(積極的か消極的かは別として)最善、最良と思って選んだ結果なのです。そのいくつかの選択肢、可能性を検討してみることは決して無駄なことではありません。むしろ、そのときに彼らが置かれた状況を理解するためには必要なことです。

荒唐無稽なシミュレーション小説、架空戦記物などは評価していません。

信玄については二つの可能性が論じられてもよいでしょう。一つは信長と直接対決した場合にどうなったか。もう一つは、信長に勝利した場合に、どのような政治構想を抱いていたのか。上洛して何をしたかったかということですが、当時はマニフェストなんて発表していないので、想像するしかありません。

元亀年間(1570-73)の信長は四方を敵に囲まれて苦しい状況にありました。中心には京の足利義昭がいて、せっせと手紙を書いては信長包囲網を構築していました。1570年は姉川の戦いがありますが、この戦いで朝倉・浅井家は致命的な大敗を喫したわけではありません。徳川家と浅井家が奮戦したように伝わっていますが、これは家康がのちに天下を取ったことと、浅井長政が秀忠の正室であるお江の方の父(母は信長の妹であるお市の方)であったことが影響しています。そもそも「姉川の戦い」という呼び方自体、徳川家でのものです(他の織田・浅井は野村合戦、朝倉は三田村合戦と呼んでいた)

信長は朝倉・浅井家に致命傷を与えられず、同じ年には本願寺との戦いを始めています(このあと十年続く)。また勢力を盛り返した朝倉・浅井家が三万の兵をもって近江坂本へ攻め込んできて、森可成(長可、蘭丸らの父)、織田信治(信長の弟)が敗死します。朝倉・浅井軍はさらに比叡山に立てこもって抵抗を見せます(のちに和議が成って撤兵)。翌1571年、信長は伊勢長島の一向一揆を攻めますが、美濃三人衆の一人、氏家卜全が戦死、柴田勝家も負傷するという敗北に終わります。また信長が比叡山を焼き討ちにするのもこの年です。信長は畿内での戦いに忙殺されて、同盟者である家康にまともな援助ができませんでした。

信長が身動きの取れない中、朝倉・浅井、本願寺などと連携を取った信玄が上洛を目指せば、さすがの信長も危うし、織田包囲網にも勝機があったと見ます。ただ、実際は朝倉義景は途中で撤兵してしまい、信玄の催促にも「雪が深いので出兵できず」と断っていますから、足並みの乱れがあったことは否めません。そうこうしているうちに信玄が病死してしまい、信長に攻められた朝倉・浅井家は滅亡、義景や長政は薄濃(はくだみ、頭蓋骨に漆を塗り金粉をかけたもの)にされてしまいます。

信玄も謙信もその行動は既存の秩序内、つまり足利将軍家の室町幕府が続くという前提に立っていました。この秩序を破壊して新体制を作る、そんな発想はなかったでしょう。様々な制約がありましたし、そもそもそんな必要がなかったかもしれません。信玄は管領か副将軍にでも任じられれば嬉々としてまた甲斐に帰って行ったでしょうし、謙信も関東管領と越後の守護格としての待遇で十分でした。疲弊した既存の秩序を破壊し、新体制を創造する。これには信長、秀吉、家康の登場を待たねばなりません。
 
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「戦国人物紹介」

■武田信玄6 風林火山

中国の兵法書、『孫子』から引用した「風林火山」の軍旗は有名である。

「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」
(はやきこと風のごとし、しずかなること林のごとし、侵掠(侵略)すること火のごとし、動かざること山のごとし)

しかし、この軍旗を内藤、馬場、高坂らの家臣に見せたとき、彼らの反応はいまひとつであった。

「わたくし無学でございまして」馬場が言った。「書いてある言葉の意味もわからず、殿がどういうおつもりでこの言葉をお選びになったかも存じません。ですからそんなわたくしがこんなことを申すのは恐縮ですが、戦を風に例えるのはいかがなものでしょうか。風というのは、初めは勢いが強くでも、やがて衰えるものでございます。縁起が悪くはございませんか」

「その通りだ」信玄はこたえた。「しかしその旗は全軍の先頭を行くのだから、行軍の速度が速いほどよい。風がやがて衰えるように、先鋒の速度も落ちることがあろうが、案じることはない。そのときにはすでにわしが本隊を率いて、その地点に到達しているからだ」

馬場は深くうなずいた。「なるほど、さようでございましたか。合戦は最初に敗れても、その次に勝てばよい。それが本当の勝利だと申しますが、さすがに殿はそのへんの呼吸をよく心得ておられます」

個々の武将が強くても、まとまって力を発揮できなければ意味がない。家臣に戦術を浸透させるため、信玄と家臣たちは頻繁に対話したと思われる。信玄の軍略の巧みさがうかがえる逸話である(『武将感状記』)
 
「戦国人物紹介」

■織田信長・外伝 

信長の若いころ、清洲城の近く、あまが池というところに大蛇が出たのを見たという者がいた。信長はこの話を聞くと、早速池に出向き、近隣の村人を集めて池の水を組み出させ始めた。四時間ほど経ったが池の水は七割ほどに減っただけだった。そこで信長は脇差をくわえてみずから池に飛び込んだ(一月の話である)。信長は池の中をしばらく探し回ったが大蛇はいなかった。

このあと、佐々内蔵佐が居城に招いたが、信長はそれを断り、まっすぐ清洲城に帰った。佐々には逆心があったから、寄ったら命を落とすところであった。領民たちは、信長は運が強いことだと言い合ったという(『信長公記』)
 
「戦国人物紹介」

■武田信玄5 合理主義

信長は無神論者で迷信を信じなかった、と思われていますが、信玄はどうだったのでしょうか。さぞ迷信深かった(出家しているが信心深かったかどうかは疑問)と思われそうですが、意外な逸話がいくつか残っています。

ある戦いでのこと。明日の暦を占ってみると、戦えば必ず負けるという凶日と出た。敵も凶日であることを知って油断しているだろうと考えた信玄、夜明けとともに激しく攻め込んで大勝利を得た。

またあるとき、飛騨の国へ攻めていったが、このときは攻める方向がよくなかった。「破軍返り」といって、その方向へ攻めると必ず負けるという方角である。家臣の間では進撃をためらう空気があったが、それを知った信玄は「敵陣を突き破って、向こう側へ出て、反対に向き直って戦えば、敵の方こそ破軍返りになるではないか」、そう言って家臣を励まし、勇敢に攻めかかったところ、大勝利であった。

信玄自身、易学(うらない)を学んで、八卦を立てることに上手だったが、出た結果にこだわることはなかった。あるときの卦が非常によくなかったのだが、信玄はそれには構わず、軍備を厳重に整えて、敵軍が油断しているところを攻めて、見事に勝利したことがある。馬場美濃守に向かって「占いも当てにならないな。出た卦はひどく悪かったのに、案外にも勝ってしまった」と言うと、「卦が悪かったと申されるのは、敵味方のうち、どちらに悪かったのでしょう」と馬場がきいた。信玄「わしが立てた卦だ、わしのために悪かったに決まっている」馬場「さようでしょう、そのはずでございます。殿のために悪い卦だとお考えになったればこそ、今日の合戦にはいつにもまして、軍備を固めたに違いありません。それゆえにこそ、意外なまでの大勝利となったのでございます」

また別のとき、信玄が出陣しようとしていると、鳩が一羽飛んできて、木の枝に止まった。すると兵士一同がこれを見てうれしそうに話を交わしているので、「どうしたのだ」と信玄が尋ねると、兵士たちは「これまでにも鳩が来て、この木に止まると、必ず戦は大勝利でした」「その鳩が今日も来ました、おめでとうございます」
しかし、信玄はその言葉がまだ終わらないうちに、鉄砲で鳩を撃ち落としていた。
兵士たちがそんな迷信を持っているとすれば、鳩が来ないときには戦いに負けるのではないかと不安に思うだろうが、それでは困ると信玄は考え、鳩と戦いの勝敗には関係がないことを兵士たちに知らせるため、わざとその鳩を撃ち落としたのだった。

謙信は特別ですが、戦に勝とうと思えば迷信に振り回されずに(時に迷信を利用して)合理主義に徹すること、これは信玄にも信長にも共通しています。
 
「戦国人物紹介」

■武田信玄4 領国統治

各地の大名は家中統制、領国統治のために分国法(家法)を定めたが、信玄のものは『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。法度は法律・禁止事項、次第は由来・順序を記した文書の意味)』と呼ばれる。「信玄家法」とも呼ばれ、上下二巻に分かれる。今川氏親(義元の父)が定めた『今川仮名目録』の影響を受けているとされる。

上巻は行政や租税、刑法などについて定めたもので、徐々に追加・改定されて1554年に五十七条となって完成した。法度の最後に「信玄自身が法を犯した場合は責任を負う」と記されている。また甲州の領民に広く知らしめたとされる。古代や中世において、法は為政者のもので、必ずしも民衆に公開されることを前提としていたわけではない(民衆はどのような法があるか、存在自体についても知らされていないことが多い)。この点でも特異な分国法である。

この中の「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」は『今川仮名目録』にもあるが、喧嘩をした場合は理非を論ぜず(どちらかが正しい、誤っているということなしに)両方を処罰するという定めである。喧嘩をしかけられても、応じなければ処罰しないとも定めてあり、自力救済、復讐の連鎖を止めさせ、家臣の統制を図るためのものであったと考えられる。

下巻は武田信繁(信玄の弟)が子の信豊および家臣に与えた九十九条の家訓である。

また、信玄は領国経営に熱心な民政家としても知られる。

甲斐は米の収穫が少なかったことから、積極的に領地拡大や新田開発、治水工事をおこない、収入の増加に努めた。中でも「信玄堤」と呼ばれる堤防を築き、河川の氾濫を抑えたことは有名である。

鉱山開発による金銀の発掘を進めていたことでも知られ、日本初の金貨と言われる「甲州金」を鋳造していた。鉱山開発に携わる金山衆は攻城戦の際に地下道を掘るなど戦時にも活躍した。

信玄の時代に定まったとされる甲州枡(こうしゅうます)は、江戸時代に全国で京枡が使われる中でも甲斐国内での使用を許され、大正時代まで使われていたという。
 
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