兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」
新発田重家というと、反乱というよりも独立戦争といった感があって、のちに語るであろう九戸政実に似る。景勝、直江兼続の仕置の拙劣さが招いた乱である。
いい線までは行ったんだけど、ローカルな武将に留まっています。
021 新発田重家 【しばたしげいえ】 1546-87
新発田氏は揚北衆で佐々木氏の一族、加地氏の庶流である。新発田から新潟、三条にかけての下越(越後北部)に勢力を持った。
因幡守。新発田綱貞の子で初め五十公野(いじみの)氏の養子となって五十公野治長と名乗る。謙信時代の活躍ははっきりとしないが、関東出兵や川中島の戦いにも従軍したという。謙信の死後の御館の乱では安田顕元の誘いもあって景勝側に属し、内乱を景勝の勝利に導いた。
1580年、兄長敦が死去すると新発田氏を継いだ。重家は御館の乱での恩賞を期待したが、恩賞の多くは景勝に近い上田(長尾)衆に与えられ、重家は新発田氏の家督を許されたに過ぎず、恩賞に不満を持った。安田顕元が景勝との間を仲介するが奏功せず、責任を感じた顕元は自害した。
1581年、独立を決意し、中央の信長、東北の蘆名氏、伊達氏と通じる。1582年の本能寺の変で織田家の攻勢は去るが、その後も景勝と一進一退の攻防は続き、一時は越中の佐々成政らとも連携して景勝を追いつめる。しかし、1586年に景勝は上洛し秀吉に臣従。秀吉の後ろ盾を得た景勝は乱の鎮圧に全力を傾けることができる状況となった。翌年になって赤谷城、五十公野城が陥落、新発田城も包囲されて重家は孤立した。重家は打って出て戦死、一族は滅亡した。御館の乱後の上杉氏の勢力後退とも相まってだが、六年余にわたって抵抗し続けたことは評価されよう。
のち秀吉の配下で堀氏の与力である溝口秀勝が新発田城に入り、廃藩まで続いた。現在は「菖蒲城」の別名でも知られる。
新発田重家というと、反乱というよりも独立戦争といった感があって、のちに語るであろう九戸政実に似る。景勝、直江兼続の仕置の拙劣さが招いた乱である。
いい線までは行ったんだけど、ローカルな武将に留まっています。
021 新発田重家 【しばたしげいえ】 1546-87
新発田氏は揚北衆で佐々木氏の一族、加地氏の庶流である。新発田から新潟、三条にかけての下越(越後北部)に勢力を持った。
因幡守。新発田綱貞の子で初め五十公野(いじみの)氏の養子となって五十公野治長と名乗る。謙信時代の活躍ははっきりとしないが、関東出兵や川中島の戦いにも従軍したという。謙信の死後の御館の乱では安田顕元の誘いもあって景勝側に属し、内乱を景勝の勝利に導いた。
1580年、兄長敦が死去すると新発田氏を継いだ。重家は御館の乱での恩賞を期待したが、恩賞の多くは景勝に近い上田(長尾)衆に与えられ、重家は新発田氏の家督を許されたに過ぎず、恩賞に不満を持った。安田顕元が景勝との間を仲介するが奏功せず、責任を感じた顕元は自害した。
1581年、独立を決意し、中央の信長、東北の蘆名氏、伊達氏と通じる。1582年の本能寺の変で織田家の攻勢は去るが、その後も景勝と一進一退の攻防は続き、一時は越中の佐々成政らとも連携して景勝を追いつめる。しかし、1586年に景勝は上洛し秀吉に臣従。秀吉の後ろ盾を得た景勝は乱の鎮圧に全力を傾けることができる状況となった。翌年になって赤谷城、五十公野城が陥落、新発田城も包囲されて重家は孤立した。重家は打って出て戦死、一族は滅亡した。御館の乱後の上杉氏の勢力後退とも相まってだが、六年余にわたって抵抗し続けたことは評価されよう。
のち秀吉の配下で堀氏の与力である溝口秀勝が新発田城に入り、廃藩まで続いた。現在は「菖蒲城」の別名でも知られる。
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「戦国人物紹介」
謙信にそむく国人領主も多かった中で、斎藤朝信は忠臣というべきでしょうか。杉原(水原)常陸介、須田大炊助あたりはやや時代が下りますね。
斎藤朝信 【さいとうとものぶ】 1527?-1591? 六十余歳?
下野守。刈羽郡赤田城主。川中島の戦いや下野佐野城攻め、越中攻めなどで活躍し、「越後の鍾馗(しょうき)」の異名を取る。御館の乱では景勝側に属し、武田勝頼との和平交渉に当たった。内政にも手腕を発揮した。

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これだと鍾馗(中国では貧乏神を追い払う神)というイメージじゃないなあ。

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これはいい斎藤朝信。2013年3月の新武将。武勇に秀でた印象を受けるが内政・外交も巧みであった。
山本寺定長 【さんぼんじさだなが】 1519?-?
伊予守。頸城郡不動山城主。越後守護であった犬懸上杉氏の庶流という。1555年の川中島の戦い(第二回)に参加し戦功を挙げた。御館の乱では後見役を務めていた景虎を推して景勝と争い、敗れて逃走した。
山本寺景長 【さんぼんじかげなが】 ?-1582
定長の弟。御館の乱では兄と分かれて景勝側についた。1582年、越中魚津城が織田軍に攻められると守備に当たるが、救援も食糧もなく落城、切腹した。ちなみに本能寺の変の翌日であり、攻囲中の柴田勝家らはまだ変が起こったことを知らない。
新発田長敦 【しばたながあつ】 1538?-1580
尾張守。重家の兄。上条氏の乱では上条側の国人を長尾晴景(謙信の兄)側に帰参させる功があったというが、年代的には疑問が残る。謙信の死後は景勝に属して地位を保った。景勝と武田勝頼の和睦交渉に奔走するが、まもなく死去。新発田氏への恩賞が少なかったことから、弟重家が反乱を起こす。重家については別に取り上げる。
島津忠直 【しまづただなお】 ?-1604
淡路守。信濃の島津氏で薩摩の島津氏の同族。信濃長沼城主。信玄の信濃攻めにあい、信濃を離れて上杉氏に仕える。本能寺の変後は長沼城に復帰する。上杉氏の会津移封に従う。ゲームを上杉氏でプレイしていて、信濃を攻めたら「島津」を捕らえたと喜んだものの、能力を見てがっかり、というのは、関東の大名でプレイしていて、千葉氏を攻めたら「原胤貞」を捕らえて「鬼美濃」だと喜んだものの、原虎胤と勘違いしていてがっかり、というのと同じ。
上条政繁 【じょうじょうまさしげ】 1553-1625
畠山義続の次男で一説に名を義春ともするが、養子との混同か。謙信の養子となって越後守護上杉氏の流れを組む上条氏の家名を継ぐ。室は景勝の妹。上野・越中などを転戦した。1575年の軍役帳によれば、景勝・村上国清・上杉景信に次いで、一門衆の四位にあげられている。謙信の没後は景勝を助ける。1580年に剃髪して宜順(ぎじゅん)と名乗る。翌年からは海津城番となったが、景勝と信濃の領地を巡って対立し、1586年に出奔。関ヶ原の戦いでは家康に属して、本姓の畠山氏に復する。子孫は幕府の高家となった。
水原親憲 【すいばらちかのり】 1546-1616
姓は杉原とも。常陸介。川中島の戦い以来の上杉家臣。新発田重家の乱で戦死した揚北衆の水原満家の家名を継ぎ、北蒲原郡水原城主という。関ヶ原の戦いでは最上攻めからの撤退戦に参加。大坂冬の陣では鴫野の戦いで豊臣方を敗走させ、須田大炊助長義らとともに秀忠より感状を賜る。その際、親憲は賜った感状をその場で開いて文面を読み、また元のように包むと、傍らの本多正信に礼を述べて静かに退出したという。古来、賜った感状をその場で開くというのは無礼なことだが、文面が気に入らなければその場で返すつもりだったという。また、「子供の石合戦の如き戦で感状を頂戴するとは」と笑ったという話も伝わる。関ヶ原では敗れたが、戦国時代を生き抜いた武門の家柄である上杉家の矜持は失わなかった。
謙信にそむく国人領主も多かった中で、斎藤朝信は忠臣というべきでしょうか。杉原(水原)常陸介、須田大炊助あたりはやや時代が下りますね。
斎藤朝信 【さいとうとものぶ】 1527?-1591? 六十余歳?
下野守。刈羽郡赤田城主。川中島の戦いや下野佐野城攻め、越中攻めなどで活躍し、「越後の鍾馗(しょうき)」の異名を取る。御館の乱では景勝側に属し、武田勝頼との和平交渉に当たった。内政にも手腕を発揮した。
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これだと鍾馗(中国では貧乏神を追い払う神)というイメージじゃないなあ。
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これはいい斎藤朝信。2013年3月の新武将。武勇に秀でた印象を受けるが内政・外交も巧みであった。
山本寺定長 【さんぼんじさだなが】 1519?-?
伊予守。頸城郡不動山城主。越後守護であった犬懸上杉氏の庶流という。1555年の川中島の戦い(第二回)に参加し戦功を挙げた。御館の乱では後見役を務めていた景虎を推して景勝と争い、敗れて逃走した。
山本寺景長 【さんぼんじかげなが】 ?-1582
定長の弟。御館の乱では兄と分かれて景勝側についた。1582年、越中魚津城が織田軍に攻められると守備に当たるが、救援も食糧もなく落城、切腹した。ちなみに本能寺の変の翌日であり、攻囲中の柴田勝家らはまだ変が起こったことを知らない。
新発田長敦 【しばたながあつ】 1538?-1580
尾張守。重家の兄。上条氏の乱では上条側の国人を長尾晴景(謙信の兄)側に帰参させる功があったというが、年代的には疑問が残る。謙信の死後は景勝に属して地位を保った。景勝と武田勝頼の和睦交渉に奔走するが、まもなく死去。新発田氏への恩賞が少なかったことから、弟重家が反乱を起こす。重家については別に取り上げる。
島津忠直 【しまづただなお】 ?-1604
淡路守。信濃の島津氏で薩摩の島津氏の同族。信濃長沼城主。信玄の信濃攻めにあい、信濃を離れて上杉氏に仕える。本能寺の変後は長沼城に復帰する。上杉氏の会津移封に従う。ゲームを上杉氏でプレイしていて、信濃を攻めたら「島津」を捕らえたと喜んだものの、能力を見てがっかり、というのは、関東の大名でプレイしていて、千葉氏を攻めたら「原胤貞」を捕らえて「鬼美濃」だと喜んだものの、原虎胤と勘違いしていてがっかり、というのと同じ。
上条政繁 【じょうじょうまさしげ】 1553-1625
畠山義続の次男で一説に名を義春ともするが、養子との混同か。謙信の養子となって越後守護上杉氏の流れを組む上条氏の家名を継ぐ。室は景勝の妹。上野・越中などを転戦した。1575年の軍役帳によれば、景勝・村上国清・上杉景信に次いで、一門衆の四位にあげられている。謙信の没後は景勝を助ける。1580年に剃髪して宜順(ぎじゅん)と名乗る。翌年からは海津城番となったが、景勝と信濃の領地を巡って対立し、1586年に出奔。関ヶ原の戦いでは家康に属して、本姓の畠山氏に復する。子孫は幕府の高家となった。
水原親憲 【すいばらちかのり】 1546-1616
姓は杉原とも。常陸介。川中島の戦い以来の上杉家臣。新発田重家の乱で戦死した揚北衆の水原満家の家名を継ぎ、北蒲原郡水原城主という。関ヶ原の戦いでは最上攻めからの撤退戦に参加。大坂冬の陣では鴫野の戦いで豊臣方を敗走させ、須田大炊助長義らとともに秀忠より感状を賜る。その際、親憲は賜った感状をその場で開いて文面を読み、また元のように包むと、傍らの本多正信に礼を述べて静かに退出したという。古来、賜った感状をその場で開くというのは無礼なことだが、文面が気に入らなければその場で返すつもりだったという。また、「子供の石合戦の如き戦で感状を頂戴するとは」と笑ったという話も伝わる。関ヶ原では敗れたが、戦国時代を生き抜いた武門の家柄である上杉家の矜持は失わなかった。
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2013年5月の新武将。息の長い活躍。
須田満親 【すだみつちか】 1526-98
相模守。信濃高井郡の土豪。満国の子。一向一揆の指導者を務めたとも言われ、謙信・景勝に仕えると、河田長親の後の越中松倉城主として一向一揆を抑える役を果たす。その後は魚津城主として織田軍の佐々成政と戦う。1583年に信濃海津城主に転じる。真田昌幸が上杉氏に通じると、人質として昌幸の二男幸村(信繁)を預かり、徳川軍と戦った。
須田長義 【すだながよし】 1579-1615
大炊助。満親の子。景勝に仕え、上杉氏が会津に移封されると梁川城代を務めた。関ヶ原の戦いでは本庄繁長とともに福島口の守備を担当し、政宗の軍を破った。大坂の陣でも軍功を立て、徳川秀忠から感状を貰ったが、戦傷がもとでまもなく死去したという。
「戦国人物紹介」のTwitterでの先行配信は140字の字数制限が厳しいので、保留しています。
独断と偏見でばっさり削ることもあるので、字数と業績は必ずしも比例しないのですが、今回の「上杉家臣3」の中で特筆すべきは鬼小島弥太郎・・・ではなく、河田長親でしょうか(北条高広は武勇で有名)
近江出身で、のちに古志長尾氏の名跡を継ぐという異色の経歴、異例の抜擢です。上洛していた謙信に見いだされて家臣となりましたが、このとき二十歳(あるいは十五歳)だったので、実務経験があったとは考えづらいところです。謙信に美貌を認められて取り立てられたという説がありますが、その方が真相に近いのかもしれません。
越後を見ると、長尾氏と同格、と思っている多くの豪族がいて、容易に謙信の支配には服属しないのですから、長親のような新規に取り立てた家臣は重宝するわけです(武田家も構図的には同様)
しかし、信長の野望で見ると、地味な能力です。
「覇王伝」 政治69 戦闘61 智謀53 采配70
「天翔記」 政才得144B 戦才得144B 智才得130B
A~Cまである習得でオールB!
なぜか、武田家の小山田信茂の能力値とそっくり。高坂や内藤を1割カットしてオールBにしたといってもよいw
謙信の越中経営に多大な功績があって、織田軍ともたびたび戦っています。『信長公記』によれば、長親の病死を知った織田家では「信長公に憎まれた者は、ことごとく自然と死んでしまう」と言いあったそうです。
長親が死んでしまうと、やがて越中は織田軍の支配下になってしまうのですから、もうちょっと評価しても、というのは結果論的な見方に過ぎるでしょうか。

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2013年3月の新武将。異色の経歴ながら上杉家に仕え、織田軍の越中進行を食い止める。
最近ようやく評価が上がり始めたところ。
独断と偏見でばっさり削ることもあるので、字数と業績は必ずしも比例しないのですが、今回の「上杉家臣3」の中で特筆すべきは鬼小島弥太郎・・・ではなく、河田長親でしょうか(北条高広は武勇で有名)
近江出身で、のちに古志長尾氏の名跡を継ぐという異色の経歴、異例の抜擢です。上洛していた謙信に見いだされて家臣となりましたが、このとき二十歳(あるいは十五歳)だったので、実務経験があったとは考えづらいところです。謙信に美貌を認められて取り立てられたという説がありますが、その方が真相に近いのかもしれません。
越後を見ると、長尾氏と同格、と思っている多くの豪族がいて、容易に謙信の支配には服属しないのですから、長親のような新規に取り立てた家臣は重宝するわけです(武田家も構図的には同様)
しかし、信長の野望で見ると、地味な能力です。
「覇王伝」 政治69 戦闘61 智謀53 采配70
「天翔記」 政才得144B 戦才得144B 智才得130B
A~Cまである習得でオールB!
なぜか、武田家の小山田信茂の能力値とそっくり。高坂や内藤を1割カットしてオールBにしたといってもよいw
謙信の越中経営に多大な功績があって、織田軍ともたびたび戦っています。『信長公記』によれば、長親の病死を知った織田家では「信長公に憎まれた者は、ことごとく自然と死んでしまう」と言いあったそうです。
長親が死んでしまうと、やがて越中は織田軍の支配下になってしまうのですから、もうちょっと評価しても、というのは結果論的な見方に過ぎるでしょうか。
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2013年3月の新武将。異色の経歴ながら上杉家に仕え、織田軍の越中進行を食い止める。
最近ようやく評価が上がり始めたところ。
「戦国人物紹介」
加地春綱 【かじはるつな】 ?-?
安芸守。蒲原郡加地荘の領主で揚北衆。近江源治佐々木氏を称する。1531年に上条定憲が揚北衆らに擁立されて、守護代長尾為景に背くと、春綱もこれに加わった。為景は娘(謙信の姉)を嫁がせることで春綱と和睦したという。のち謙信に仕え、1564年には信濃飯山城主となっている。子の秀綱は謙信に仕えたが、御館の乱では景虎側となり、景勝側に攻められて降伏。同族である新発田重家が景勝に対し反乱を起こすとこれに同調、居城を攻められて敗死した。
春日元忠 【かすがもとただ】 ?-1608
武田旧臣。のち景勝に仕えて直江兼続の側近。「直江被官の棟梁」と呼ばれるほど信頼された。関ヶ原の戦いでは最上氏の出羽長谷堂城を囲むが敗れる。
神余親綱 【かなまりちかつな】 1526?-80
小次郎。1577年、山吉豊守の死後、蒲原郡三条城主。御館の乱では景虎側。景虎の死後も抗戦を続けるが、山吉家の旧臣に殺された。
河田長親 【かわだながちか】 1540?-81
豊前守。近江守山の出身で、1559年、謙信が上洛した際にその才能を見込まれて越後に下向、奉行職として外交文書の発給などに当たる。また関東攻めや越中一向一揆との戦いでも活躍。1561年、謙信(長尾景虎)が上杉氏を称すと、一族の長尾景信(古志長尾氏)も上杉氏を称し、長親は古志長尾氏を継ぐが、長尾氏を名乗ることは辞退している。1569年から越中魚津城主として越中方面を統括する。謙信が死去すると出家して禅忠と号す。御館の乱では伯父の河田重親が景虎側につくが、長親は初め中立、のちに景勝を支持した。越中松倉城主として織田軍の攻撃を受ける。織田方からは本国近江の地を与えるとの条件で、度々誘いがあったが断って越中を守備、1581年に死去。その後も織田方の柴田勝家や佐々成政の攻撃が続き、越中は織田方が支配することになる。
■北条(きたじょう)氏(系図には諸説あり)
くどいようだが、「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」である。毛利氏と同族で、その祖は源頼朝に招かれ、公文所(政所)の初代別当となった大江(中原)広元である。
大江広元-季光(相模毛利)-経光-基親(弟時親は安芸毛利氏の祖)-時元-経高-北条治良(晴良。兄弟の憲朝は安田氏の祖)-長広-延広-広栄-重広-広栄-輔広-広春-高広-景広
北条高広 【きたじょうたかひろ】 1517?-87?
丹後守、安芸守。刈羽郡佐橋荘北条城主(柏崎市)。剛勇だが粗忽な気性で、1554年には信玄に誘われて謙信に背くが、謙信の攻撃を受けると降伏。1563年には上野厩橋城主に任じられ、関東方面を任される。しかし、1567年、今度は北条氏康に誘われ再度謙信に背く。翌年上杉氏と北条氏の間で和平が成立(越相同盟)すると、上杉氏に復帰した。御館の乱では景虎側につくが、子の景広は殺され、高広は武田勝頼を頼った。のち帰参を許されるという。

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謙信に度々叛いた代表格のように言われるが、最近は評価を見直す動きもある。
北条景広 【きたじょうかげひろ】 1548-79
丹後守。高広の子。父とともに上野厩橋城にあって、謙信の関東統治を助けた。御館の乱では景虎側に属したために、景勝側の荻田主馬(孫十郎)に殺された。
黒川清実 【くろかわきよざね】 ?-?
四郎兵衛尉。蒲原郡奥山荘北条(黒川)城主。揚北衆の一人で、妻は同じ揚北衆である色部勝長の娘。1531年の上条氏の乱では長尾為景側に属すが、1535年の乱のときには上条氏に味方する。のち上杉氏に仕える。御館の乱では景虎側に属し、黒川氏と同族である中条氏と争い、のち景勝に帰参する。子の為実は景勝の会津移封に従う。
小島弥太郎 【こじまやたろう】 1522-82
名は貞興。謙信の少年時代からの側近。本姓は小島だが、強力無双であったために「鬼小島」と呼ばれ恐れられた。猛犬や暴れ猿退治など、数々の逸話が残る豪傑。

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能力、コスト的には剣豪に近いが、攻撃力が劣り、指揮兵数がやや高い。秘境要員かも・・・。
加地春綱 【かじはるつな】 ?-?
安芸守。蒲原郡加地荘の領主で揚北衆。近江源治佐々木氏を称する。1531年に上条定憲が揚北衆らに擁立されて、守護代長尾為景に背くと、春綱もこれに加わった。為景は娘(謙信の姉)を嫁がせることで春綱と和睦したという。のち謙信に仕え、1564年には信濃飯山城主となっている。子の秀綱は謙信に仕えたが、御館の乱では景虎側となり、景勝側に攻められて降伏。同族である新発田重家が景勝に対し反乱を起こすとこれに同調、居城を攻められて敗死した。
春日元忠 【かすがもとただ】 ?-1608
武田旧臣。のち景勝に仕えて直江兼続の側近。「直江被官の棟梁」と呼ばれるほど信頼された。関ヶ原の戦いでは最上氏の出羽長谷堂城を囲むが敗れる。
神余親綱 【かなまりちかつな】 1526?-80
小次郎。1577年、山吉豊守の死後、蒲原郡三条城主。御館の乱では景虎側。景虎の死後も抗戦を続けるが、山吉家の旧臣に殺された。
河田長親 【かわだながちか】 1540?-81
豊前守。近江守山の出身で、1559年、謙信が上洛した際にその才能を見込まれて越後に下向、奉行職として外交文書の発給などに当たる。また関東攻めや越中一向一揆との戦いでも活躍。1561年、謙信(長尾景虎)が上杉氏を称すと、一族の長尾景信(古志長尾氏)も上杉氏を称し、長親は古志長尾氏を継ぐが、長尾氏を名乗ることは辞退している。1569年から越中魚津城主として越中方面を統括する。謙信が死去すると出家して禅忠と号す。御館の乱では伯父の河田重親が景虎側につくが、長親は初め中立、のちに景勝を支持した。越中松倉城主として織田軍の攻撃を受ける。織田方からは本国近江の地を与えるとの条件で、度々誘いがあったが断って越中を守備、1581年に死去。その後も織田方の柴田勝家や佐々成政の攻撃が続き、越中は織田方が支配することになる。
■北条(きたじょう)氏(系図には諸説あり)
くどいようだが、「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」である。毛利氏と同族で、その祖は源頼朝に招かれ、公文所(政所)の初代別当となった大江(中原)広元である。
大江広元-季光(相模毛利)-経光-基親(弟時親は安芸毛利氏の祖)-時元-経高-北条治良(晴良。兄弟の憲朝は安田氏の祖)-長広-延広-広栄-重広-広栄-輔広-広春-高広-景広
北条高広 【きたじょうたかひろ】 1517?-87?
丹後守、安芸守。刈羽郡佐橋荘北条城主(柏崎市)。剛勇だが粗忽な気性で、1554年には信玄に誘われて謙信に背くが、謙信の攻撃を受けると降伏。1563年には上野厩橋城主に任じられ、関東方面を任される。しかし、1567年、今度は北条氏康に誘われ再度謙信に背く。翌年上杉氏と北条氏の間で和平が成立(越相同盟)すると、上杉氏に復帰した。御館の乱では景虎側につくが、子の景広は殺され、高広は武田勝頼を頼った。のち帰参を許されるという。
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謙信に度々叛いた代表格のように言われるが、最近は評価を見直す動きもある。
北条景広 【きたじょうかげひろ】 1548-79
丹後守。高広の子。父とともに上野厩橋城にあって、謙信の関東統治を助けた。御館の乱では景虎側に属したために、景勝側の荻田主馬(孫十郎)に殺された。
黒川清実 【くろかわきよざね】 ?-?
四郎兵衛尉。蒲原郡奥山荘北条(黒川)城主。揚北衆の一人で、妻は同じ揚北衆である色部勝長の娘。1531年の上条氏の乱では長尾為景側に属すが、1535年の乱のときには上条氏に味方する。のち上杉氏に仕える。御館の乱では景虎側に属し、黒川氏と同族である中条氏と争い、のち景勝に帰参する。子の為実は景勝の会津移封に従う。
小島弥太郎 【こじまやたろう】 1522-82
名は貞興。謙信の少年時代からの側近。本姓は小島だが、強力無双であったために「鬼小島」と呼ばれ恐れられた。猛犬や暴れ猿退治など、数々の逸話が残る豪傑。
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能力、コスト的には剣豪に近いが、攻撃力が劣り、指揮兵数がやや高い。秘境要員かも・・・。
柿崎景家と言えば、ゲームでも上杉家中で謙信に次ぐ武力を誇る猛将である。武田家中における山県昌景に相当するだろう。そこで景家で伝を立てようと思うのである(「上杉家臣3」で済ませるには惜しい)
「戦国人物紹介」
020 柿崎景家 【かきざきかげいえ】 1513?-1574 六十余歳?
和泉守。中頸城郡柿崎城主。柿崎氏は新田氏の子孫を称した。景家は謙信が「越後七郡で彼にかなう者はなし」と評した家中随一の猛将。謙信(当時は景虎)が兄晴景と対立した際には謙信を支持している。その後も小田原攻め・川中島の戦いなどで上杉軍の主力として活躍した。戦場だけでなく、斎藤朝信とともに奉行職を務め、また北条氏との越相同盟締結に功績があるなど、内政・外交面でも働きを見せている。信長への内通疑惑により謙信に殺されたとの話が流布しているが俗説という。
景家の子晴家は御館の乱で景虎側に属し景勝側に暗殺され、憲家が家名を再興。子孫は米沢藩士。
新田義貞-義宗-(略)-(柿崎)景家-晴家-憲家
柿崎景家に関する逸話。景家がある城を攻めていたときのことである。
適当に攻めて軍を引こうとしていると、城からの逆襲に遭って激戦となった。
景家の家来である大川十郎は、左の腕を敵の矢で射抜かれたが、なおも前進して兜首を一つ取った。そしてその首を景家の前に持ってきた。左の腕には矢が突き通ったままである。勇戦のあとをそのまま示しているような大川十郎の様子を見て景家は「ばかものっ」と叱りつけた。
「なぜ今頃のこのこと本陣へ帰ってくるのか。おぬしほどの豪傑ならば、兜首一つ取ったくらいで自慢になると思うのか。それになんだ、その矢は。おぬしほどの豪傑が、それくらいの手傷でへこたれる道理はない。いまは戦いの最中。一歩でも深く敵陣へ駆け込まねばならんのがわからんのか」
景家の将としての厳しい態度である。こういう態度を将が取ったのでは、兵士一同、敵を倒しても首を取らず、倒しっぱなしにして前進を続けなければならなくなるだろう。
しかし、そうなったのでは、せっかくの手柄が戦場の混乱の中に埋もれてしまい、戦後の論功行賞が不正確になって兵士の恨みを買う結果になる。
といって、その結果を恐れていたのでは、激戦の最中に敵の首を取ることにばかり兵士が熱中することになり、それでは肝心の前進が鈍ってしまう。
このへんの兼ね合いが戦場指揮の難しいところである(『武将感状記』)

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ステ振り未済状態かな。Lv.10までいかなくても余裕で攻撃力1000を超えます。
謙信が「(分別があれば)越後でかなう者はいない」と評したこともありますし、信長の謀略によって謙信に殺されたという俗説もあって、「もうちょっと思慮があればなあ」という猪武者の印象が定着しています。
「戦国人物紹介」
020 柿崎景家 【かきざきかげいえ】 1513?-1574 六十余歳?
和泉守。中頸城郡柿崎城主。柿崎氏は新田氏の子孫を称した。景家は謙信が「越後七郡で彼にかなう者はなし」と評した家中随一の猛将。謙信(当時は景虎)が兄晴景と対立した際には謙信を支持している。その後も小田原攻め・川中島の戦いなどで上杉軍の主力として活躍した。戦場だけでなく、斎藤朝信とともに奉行職を務め、また北条氏との越相同盟締結に功績があるなど、内政・外交面でも働きを見せている。信長への内通疑惑により謙信に殺されたとの話が流布しているが俗説という。
景家の子晴家は御館の乱で景虎側に属し景勝側に暗殺され、憲家が家名を再興。子孫は米沢藩士。
新田義貞-義宗-(略)-(柿崎)景家-晴家-憲家
柿崎景家に関する逸話。景家がある城を攻めていたときのことである。
適当に攻めて軍を引こうとしていると、城からの逆襲に遭って激戦となった。
景家の家来である大川十郎は、左の腕を敵の矢で射抜かれたが、なおも前進して兜首を一つ取った。そしてその首を景家の前に持ってきた。左の腕には矢が突き通ったままである。勇戦のあとをそのまま示しているような大川十郎の様子を見て景家は「ばかものっ」と叱りつけた。
「なぜ今頃のこのこと本陣へ帰ってくるのか。おぬしほどの豪傑ならば、兜首一つ取ったくらいで自慢になると思うのか。それになんだ、その矢は。おぬしほどの豪傑が、それくらいの手傷でへこたれる道理はない。いまは戦いの最中。一歩でも深く敵陣へ駆け込まねばならんのがわからんのか」
景家の将としての厳しい態度である。こういう態度を将が取ったのでは、兵士一同、敵を倒しても首を取らず、倒しっぱなしにして前進を続けなければならなくなるだろう。
しかし、そうなったのでは、せっかくの手柄が戦場の混乱の中に埋もれてしまい、戦後の論功行賞が不正確になって兵士の恨みを買う結果になる。
といって、その結果を恐れていたのでは、激戦の最中に敵の首を取ることにばかり兵士が熱中することになり、それでは肝心の前進が鈍ってしまう。
このへんの兼ね合いが戦場指揮の難しいところである(『武将感状記』)
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ステ振り未済状態かな。Lv.10までいかなくても余裕で攻撃力1000を超えます。
謙信が「(分別があれば)越後でかなう者はいない」と評したこともありますし、信長の謀略によって謙信に殺されたという俗説もあって、「もうちょっと思慮があればなあ」という猪武者の印象が定着しています。