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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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長尾為景(謙信のパパ)について少し調べてみましたが、ほとんど負けていないね、この人w

1488年(あるいは1489年)を生年とする説がありますが、初陣は越後守護上杉房能が実兄である関東管領(山内)上杉顕定を援けて関東に出兵したときでしょうか。おそらく為景の父能景に従ってのもので、1504年、十七歳(あるいは十六歳)と考えられます。信玄の父信虎も十代で初陣を飾っていますから、戦国まっただ中の当時ではこれが普通だったのかもしれません。

1506年に父の能景が越中出兵中に戦死すると家督を継ぎ、国人の反乱を鎮圧しています。翌年には、越後守護の上杉房能が為景を除く動きを見せると反攻して、天水越の戦いで房能を自害させています。このあと、為景は越後守護として上杉定実を擁立しています。ついで、これに反発した国人の反乱を抑えます。

1509年には房能の実兄である関東管領上杉顕定が越後に侵攻してきたため、越中、ついで佐渡に逃れます。

翌年には反撃を開始。佐渡から越後に上陸し、椎谷の戦いで顕定の子憲房を破り、越後府中を奪回、さらに長森原の戦いで顕定を敗死させます。このあとは国内で掃討戦。

1513年には守護派と対立しますが、翌年に守護派の宇佐美房忠(定満の父)を敗死させ、勝利を収めます。1518年からは越中に出兵し、翌年、父の仇であった神保慶宗を討ちます。さらに1524年には北信濃に出兵し、母方の実家である高梨家を支援しています。

1533年以降は上条(上杉)定憲の乱が起こり、1536年には三分一原の戦いで勝利するなど優勢を保つものの、反対派の勢いは衰えず、家督を嫡子晴景(謙信の兄)に譲って、隠居を余儀なくされます。このあたりが守護代から越後統一を目指した為景の限界でしょうか。

ということで、はっきりと負けたのは、関東管領上杉顕定の越後出兵で越中に逃れたときくらいかもしれません。国人たちとは相当戦っているでしょうから、全部で何戦したのでしょうか。謙信に劣らず強いですね。
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「戦国人物紹介」

■長尾氏

のちに長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉氏の家名を継いだために藤原氏となったが、もとの長尾氏は桓武平氏の流れを組み、坂東八平氏の一つである。鎌倉時代の末期に上杉氏(足利尊氏・直義兄弟の母方の実家)に従い、上杉氏の家宰・守護代として、一族は上野・越後などに分かれた。嫡流の長尾景忠の子孫は上野白井・上野総社・鎌倉(足利)の各長尾氏に分かれ、景忠の弟(一族ともいう)景恒の子孫から上田長尾、古志長尾、三条長尾の越後長尾氏が分かれた。

景為-景恒-高景-景房-頼景-重景-能景-為景-晴景=景虎(謙信)

022 長尾為景 【ながおためかげ】 1471?-1536?(生没年には異説あり)

生年には1489年の異説もある。父能景が1459年生まれとされているので、1471年を生年とすると、能景十三歳のときの子ということになる。没年も、長男晴景に家督を譲った1536年以降も生存していたという説があり、1537年、1542年とするものもある。これに限らず、上杉家の史家は怠慢か。

六郎、弾正左衛門尉、信濃守。上杉謙信の父で、越後守護代を務める。

「百戦錬磨の猛将」という表現は当を得ていよう。1506年、父能景が越中に出陣し一向一揆と戦うが般若野の戦いで戦死すると家督を継いだ。1507年、越後守護上杉房能と対立すると、その養子定実を擁立して房能を滅ぼす。しかし、房能の実兄である関東管領山内顕定が越後に出兵してくると、為景は敗れて一時佐渡(あるいは越中)に逃れた。その後再起し、1510年に長森原の戦いで顕定を敗死させ、越後の実権を掌握した。とはいえ、国内外に反対派は多く、越後国内では国人領主との戦いを繰り返し、越中・加賀にも遠征した。特に上杉(上条)定憲とはたびたび争った。武威だけでなく、朝廷や幕府にも使者を送るなど外交面にも配慮し、越後の統一を目指したが、国人の反乱が続くさなかに死去した。一説に越中栴檀野の戦いに敗死したともいうが父との混同か。

誇張かもしれないが百余度も戦ったという数は尋常でない。活動期間を四十年としても年平均で二回以上、それも死ぬまでである。

以前別のところに書いた本多忠勝は家康のほとんどの戦いに参加しているが、桶狭間の戦い直前の大高城兵糧入れが初陣で、最後が関ヶ原の戦いなので、四十年間で五十七戦である。途中、秀吉の天下統一があるから、十年除いたとして三十年でこの数なので、やはり年二回平均なのだが、この人は関ヶ原の前後、十年ずつ戦争しない期間があった。死ぬまで戦場に出ていたわけではない。

信長で六十戦ほど。細かいものを数えるともっと多いだろう。約二十五年でこの数なので、信長は多い方か。天下統一のために、常備軍を創って農繁期も農閑期も戦争していたためだろう。信長が参加していない織田軍全体の戦いはさらに多い。ちなみに三国志の曹操は三十五年で約七十戦。この人も死ぬ前年まで戦っていた。

信長、謙信、信玄とも、父親が国内や家中統一のために生涯戦い続けた武将であった。父の奮闘に子の活躍の礎がある。



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シークレットカード。上杉謙信の父であるが、その養子である景勝の外祖父(母方の祖父)でもある。
「戦国人物紹介」

武田家には二十四将を初めとする武将がいますが、上杉家にも多くの優秀な武将がいます、ということで始めた上杉家臣編も今回が最終回。

■安田氏1 この安田氏は越後国北蒲原郡安田邑(白河荘安田条)より起こる。桓武平氏の一族で、平安時代から鎌倉時代に越後で栄えた城氏の流れを組むという。子孫は米沢藩に仕える。

城資永(資長)-(中略)-入道師顕-有時-有信-(中略)-有清-長秀=堅親

安田長秀 【やすだながひで】 1516?-82?

治部少輔。北蒲原郡白河荘安田城主。揚北衆だが謙信には早くから従い、側近となる。川中島の戦いでは、「血染めの感状」を受けたとされる。謙信の死後は景勝に属した。安田上総介順易と混同されるが別人。河田長親の三男に娘が嫁ぎ、安田家の家督を継いで堅親(筑前守)と名乗る。

■安田氏2 越後国刈羽郡鵜川荘安田条より起こる。大江広元の子孫でもとは毛利氏。北条(きたじょう)氏とは同族になる。憲朝までの系譜には異説もある。

毛利経高-安田(毛利)朝広(のち憲朝)-通元-重広-清広-広春-景元-顕元=能元(順易。顕元の弟)
 
安田景元 【やすだかげもと】 ?-?

越中守。為景、謙信に仕える。1534年、越後納下で上杉定憲を破って為景から感状を与えられる。1554年、同族の北条高広が謙信に背くと、これを直江実綱に報せ、高広攻めに加わった。

安田顕元 【やすだあきもと】 1538-80

惣八郎、掃部助。刈羽郡安田城主。越中守景元の子。御館の乱では景勝に味方し、新発田重家を景勝方に取り込むなど勝利に貢献するが、戦後、恩賞問題のこじれから自害。

安田能元 【やすだよしもと】 1557-1622

順易。弥九郎、上総介。謙信・景勝に仕える。兄の後を継ぎ、刈羽郡安田城主。会津三奉行の一人。家康の会津攻めでは、景勝に先鋒を命じられ、大坂冬の陣の鴫野口の戦いでは第二陣を務めた。

山吉豊守 【やまよしとよもり】 1541-77

豊盛とも。孫次郎。三条城主。謙信の側近で北条氏との折衝を担当。謙信が越中に出兵したときは春日山城の留守役を務める。1575年には家老筆頭。

吉江景資 【よしえかげすけ】 1527-82

与橘、織部助。越後の国人。西蒲原郡吉江村の領主。宗信(木工助)の子。謙信の死後は景勝に属し、越中魚津城で父宗信、子中条景泰らとともに織田軍に敗死。


以上です。

ところどころに意見を加えましたが、基本的には本当の人物紹介という形であまり自説は述べませんでした。欲求不満ですw

このあとは謙信を初めとする上杉一族を書いてみる予定ですが、景勝と直江兼続は前の場所で一度やっているのであらためて書くかは微妙なところです。紹介していない逸話もありますし、兼続はどれだけこきおろしてもまだ足りないという感がありますがw

少し脇道にそれますが、中条藤資の鳥坂(とっさか)城といえば、板額御前(巴御前と並び称される武勇の女性)ですし、上杉家の財政を担った大熊政秀・朝秀(長秀)親子も書いていません。謙信と信玄の話も書きたいですし、まだまだ書き足りないですね。
「戦国人物紹介」

藤田信吉 【ふじたのぶよし】 1559-1616

弥六郎、能登守。武田家旧臣。関東管領上杉氏に仕えた藤田氏の一族ともいうが不詳。武田家滅亡後は景勝に仕え、佐渡攻略などに活躍した。関ヶ原の戦いでは上杉・徳川家間の調停工作を行うが主戦派である直江兼続らの妨害により失敗、上杉家を出奔せざるをえなくなり、京の大徳寺で出家して源心と名乗った。のち家康に仕えて下野西方で一万五千石を与えられるが、大坂の陣において指揮に落ち度があったとの理由で改易された。翌年信濃奈良井で死去。自殺説もある。

■本庄氏 越後小泉庄本庄より起こり、一時小泉氏も称した。桓武平氏秩父氏の流れで色部氏と同族。

秩父季長-行長(弟為長は色部氏の祖)-長教-持長-有長-憲長-顕長-長員-房長-英長-通長-時長-房長-繁長-顕長=充長(顕長の弟、もと大宝寺義勝)

本庄繁長 【ほんじょうしげなが】 1539-1613

揚北衆で岩船郡本庄城主(村上城)。繁長が生まれる前に、父房長が弟の小川長資に城を乗っ取られて失意のうちに死んだ。繁長はわずか十三歳で、一族とともに長資を討って城を取り戻し、当主となっている。その後、謙信に仕えて川中島の戦いや関東攻略に参加し、戦功を立てた。1568年、武田信玄に内通したために謙信の攻撃を受け、敗北する。御館の乱では景勝を支持する。1591年、一揆煽動の嫌疑により、子の大宝寺義勝とともに大和に配流されたが、文禄の役に参陣して許され、上杉家に帰参した。景勝が会津に移封されるとこれに従う。関ヶ原の戦いでは福島城を守備して伊達軍と戦った。



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2013年3月の新武将。他の謙信家臣のように反復常無きように思えるが、息の長い活躍を見せる。

本庄実乃 【ほんじょうじつの】 1511?-75?

実仍で「さねより」か。慶秀とも。新左衛門尉、美作守。謙信の側近で、軍学の師という。早くから景虎(謙信)の器量を見抜き、1543年、景虎を居城栃尾城に迎える。揚北衆が謀叛を起こして栃尾城に攻めてきたとき、まだ十四歳であった謙信の初陣を援護し、勝利に大きく貢献した。その後、景虎は兄晴景に代わって長尾家の家督を継ぐ。以後も直江実綱(景綱)らとともに政権の中枢にあった。



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2013年3月の新武将。謙信擁立の功臣。老臣のイメージがあるが、謙信擁立時は四十歳前なのだなあ。

本庄秀綱 【ほんじょうひでつな】 ?-?

清七郎。美作守慶秀の子。古志郡栃尾城主。謙信の死後は景虎を推し景勝と戦う。景虎の死後も抵抗するが、1580年四月、栃尾城を捨てて逃走した。

村上国清 【むらかみくにきよ】 1546-1603?

義清の子。信玄に信濃を追われ、父とともに越後に逃れる。上杉家臣となり、のちに上杉氏の一門である山浦姓を名乗った。謙信に重用され、家康との交渉を担当する。御館の乱では居多浜で上杉景信を討ち取る。乱後、景勝から一字を拝領して景国と名乗る。1582年には海津城代となり、父の旧領を回復する。小田原攻めでは上杉家の先鋒として出陣する。
週一ペース。

「戦国人物紹介」

大宝寺義勝 【だいほうじよしかつ】 1573-1623

本庄繁長の二男。出羽の大宝寺義氏は上杉氏らと結んで最上義光に対抗しようとしたが家臣に殺され、弟の義興も義光に敗死した。景勝は本庄繁長の二男千勝丸を出羽に送り込んで大宝寺氏の家名を継がせた。その後は秀吉に臣従するが、一揆煽動の疑いにより、大和に配流された。文禄の役で肥前名護屋に参陣したことから許されて、上杉氏に仕えた。

高梨政頼 【たかなしまさより】 1508?-76?

北信濃、中野(現中野市)の土豪。もと村上義清に属したが、義清の没落後は謙信を頼る。川中島の戦いで上杉軍の先鋒として奮戦するが、旧領回復は果たせなかった。 子の頼親の代に旧領を回復するが、上杉氏の会津移封に従ったと言われ、子孫は米沢藩士となった。

竹俣慶綱 【たけのまたよしつな】 1524-82

北蒲原郡竹俣城主。為綱の子。鎌倉時代に地頭として入部した佐々木加治(加地)氏の庶流で、新発田氏とは同族になる。川中島の戦いに参加したほか、本庄繁長が反乱したときに鎮定に加わるなど各地で戦っている。御館の乱では景勝を支持し、同族の新発田長敦(重家の兄)や斎藤朝信とともに武田勝頼との交渉に当たっている。その後は越中魚津城を守備するが、織田軍の攻撃により討ち死にした。子孫に上杉鷹山の藩政改革で活躍した竹俣当綱(まさつな)がいる。

千坂景親 【ちさかかげちか】 1536-1606

越後の国人。蒲原郡白河荘女堂鉢盛城主。御館の乱では景勝に属す。その後は信濃で徳川軍と戦う。米沢藩の初代江戸家老。『忠臣蔵』に登場する上杉家の江戸家老千坂兵部(高房)は景親の玄孫に当たる(ただし、実際に赤穂事件が起こった頃には死去している)

直江景綱 【なおえかげつな】 1509-77

神五郎、大和守。初名は実綱。三島郡与板城主。謙信の側近として内政・外交に活躍した。1560年、謙信が関東に出陣すると春日山の留守居役を務めた。また前関白の近衛前久(前嗣)が越後に下ってきた際には饗応役を務めた。のち謙信の旧名・景虎から「景」の一字を拝領し、景綱へと改名した。



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内政の高さを活かす場面はない・・・。

直江信綱 【なおえのぶつな】 ?-1581 生年は1560年くらいか

上野国総社の長尾景貞の子ともいうがはっきりしない。直江景綱の娘・船の婿となって直江家を継ぐ。御館の乱では景勝方に属すが、乱後に春日山城で不慮の死を遂げる。毛利奈左衛門秀広と山崎秀仙の恩賞を巡っての争いの巻き添えとなり毛利に殺されたという。その後、妻の船は景勝の命により側近の樋口与六と再婚し、樋口与六は直江兼続となった。某小説で上杉景虎とともに有名。

中条藤資 【なかじょうふじすけ】 ?-1568 生年1480頃

弾正左衛門尉、越前守。揚北衆の一人。三浦氏の一族である和田氏の流れを組む。弥三郎定資の子。北蒲原郡奥山荘鳥坂(とっさか)山城主。早くから長尾為景に従って、越後守護・上杉房能や関東管領との戦いに貢献した。一時上条定憲の乱に加わったこともあるが、為景に従っている。八十余歳で川中島の戦いに出陣し、感状を受けたとされる。



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2013年3月の新武将。老将フェチの人はこういうところを狙うのも一考かと。安定の能力。

中条景泰 【なかじょうかげやす】 1558-82

与次、越前守。吉江景資の嫡男で中条藤資の娘(孫娘か)を娶る。藤資の死後、謙信のはからいで中条家を継ぎ、北蒲原郡鳥坂山城主となる。謙信の死後は景勝に仕えるが、1582年、魚津城で柴田勝家に敗れて玉砕。遺児は幼少だったが特別に家督を認められ、子孫は米沢藩に仕えた。

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