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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

■上杉謙信2

1552年、関東管領の上杉憲政は小田原の北条氏康に圧迫され、上野の平井城を棄てて越後の景虎を頼ってきた。景虎は憲政を御館に住まわせる。為景時代、越中に出兵した例はあるが、関東への出兵には慎重だった長尾氏は、これにより北条氏と敵対することになる。ついで武田晴信(信玄、以後信玄で通す)の信濃侵攻により信濃を追われた小笠原長時、村上義清らが相次いで景虎に助けを求めたため、1553年、景虎は信濃に出兵、武田軍の先鋒を破っている。武田家の本陣とは戦わず、両者は兵を引き上げたが、これが第一回の川中島の戦いとされている。同年九月、初の上洛を果たし、後奈良天皇と将軍足利義輝に拝謁。天皇に拝謁した際は御剣と天盃を下賜され「治罰綸旨」を得ている。景虎の敵は賊軍とされ、戦いにおける大義名分を得たのである。

1554年十二月、家臣の北条(きたじょう)高広が信玄に通じて謀反を起こすが、翌年二月には景虎自らが出陣して北条城を包囲、高広を降伏させた。高広は帰参を許されている。ついで信濃に出兵すると犀川をはさんで武田軍と対峙。二回目の川中島の戦いである。このときは信玄が駿河の今川義元に仲介を依頼し、これにより和睦している。

ところが1556年、二十七歳のときだが、三月に突如国主の座を棄て出家すると宣言し、家臣の止めるのも聞かず、六月には高野山を目指して出奔してしまう。「家臣に見放されて国主の任に堪えない」「功成り名を遂げたからいまが引き際」などと旧師の天室光育への書に記している。この間、信玄に通じた大熊朝秀が反乱を起こす。天室光育、義兄の長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後へ帰国し、朝秀の反乱を鎮圧する。

越後では景虎が国主の座に就いたものの、国内では豪族同士の争いが続き、景虎の支配も完全なものではなかった。信濃に出兵しても、越後の武将たちには得るものが少なく、対陣の途中であっても兵をまとめて引き上げる者までいた。出奔騒動は家臣の調停に疲れた景虎の突飛な性格をよく表しているとされるが、家臣たちは謙信に忠義を尽くす旨の誓紙を出して騒動は収まったことから、近年では景虎の意図的な行動だったという説もある。

毘沙門天の化身と言ったり、みずから神秘性のベールをまとった謙信ですが、こういう出奔騒動の話を見ると、現代の経営者にも通じる、妙に人間ぽいところがあって親近感がわきます。
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「戦国人物紹介」今後の予定

上杉謙信の残りの連載回数と内容の割り振りがほぼ完了。

信玄と同じ全7回で締めます。

第2回、第3回で残りの事績、

第4回で内政について、

第5回と第6回で信玄との話、

第7回でそのほかの話、といった感じです。

その次は、長尾政景は宇佐美定満や謙信の回で書いたので割愛。

上杉憲政、上杉景信(やらないかもしれない)、上杉景虎(養子の方)、

と来て、上杉景勝、直江兼続をやるかどうかですね(前のところで一度やったので)

時代は違いますが、番外編で板額御前、あとは大熊朝秀あたりに触れて、畿内に移ろうかと。
「戦国人物紹介」2011

■上杉謙信1

024 上杉謙信
 【うえすぎけんしん】 1530-78

従五位下弾正少弼、関東管領、不識院(不識庵)大僧都。

戦国最強と謳われた「越後の龍」。もと長尾氏だが上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉を名乗った。「毘」の軍旗を翻して戦場を疾駆する姿は、軍神の如しと畏れられた。義心が篤く、領土欲を持たないため、版図拡大の兵は起こさなかったというが、これは事実ではない。

少しさかのぼって、謙信の幼時の話から筆を起こしたい。

彼が生まれたのは1530年、虎千代と名付けられた。すでに兄晴景と姉(仙桃院)がおり、長尾家の後継は晴景と決まっていた。虎千代は七歳になると、父の命により林泉寺に出される。母である虎御前(青岩院)が信仰心に篤く、虎千代もその影響を受けていた。師は天室光育(てんしつこういく)で、僧としての学問だけでなく、軍学も教えていた。そのやり方は城の模型を使っての実戦形式で、虎千代も軍学にのめりこんでしまったという。

しばらくして父為景が亡くなるが、越後国内は守護上杉定実の養子問題のため内乱状態にあった。いつ敵方が攻めてくるかわからず、虎千代も甲冑を着けて葬儀に臨んだ。兄晴景は父を継いで越後を統べる力を持たなかったため、1543年、虎千代を呼び戻す。還俗し、長尾景虎と名乗ると、晴景の命により古志郡司として中越地方の反乱鎮圧に向かう。三条城、ついで栃尾城に入った景虎は、翌年、栃尾城に攻め寄せてきた反乱軍に勝利。初陣を飾った。

1545年には守護上杉氏の家臣である黒田秀忠が長尾氏に背くが、景虎はこれを討った。これ以降、武勇に優れる景虎は越後の国人たちの期待を集め、景虎を守護代に推して、晴景の隠居を迫る動きが出てくるようになる。晴景側には上田長尾氏の長尾政景らがつき、両者は一触即発となるが、守護である上杉定実が調停に入る。1548年、晴景は景虎を養子とする形で家督を譲り隠居、景虎は春日山城に入り守護代となる。いまだ十九歳である。

1550年には越後守護の上杉定実が子のないまま死去、守護職は空白となるが、景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許される。名目的には越後の頂点に立ったが、それで国内がまとまるほど甘くはなかった。姉の嫁ぎ先である長尾政景が景虎の家督相続に不満を持ち反乱を起こしたのである。反乱の翌年、景虎は政景のこもる坂戸城を包囲して政景を降伏させ、越後の統一に成功する。



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法体でもないのに白頭巾姿とはこれいかに・・・。

「戦国人物紹介」

越後「国主」長尾景虎を生んだ調停者

023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (後編)

越後守護であった上杉房能を除き、養嗣子であった定実を守護に立てた守護代長尾為景だったが、房能の実兄であり関東管領の上杉顕定が越後に攻め入ると、府中を放棄し、定実とともに越中、さらに佐渡へと逃れる。1510年、二人は蒲原津(新潟市)から上陸すると反管領派とも連携し、長森原の戦いで顕定を敗死させることに成功する。

しかし、為景と定実の蜜月は長くは続かなかった。三年後には守護派と守護代派が争いを始め、為景はみずからが擁立した守護定実との戦いを余儀なくされる。定実を幽閉し、守護派を退けた為景は越後の実権を掌握する。 為景は中央との外交にも力を入れ、幕府への献金を行い、将軍足利義晴からは、白笠袋・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・塗輿の使用を許されている。これは本来であれば守護に許される特権である。また、嫡男に義晴から一字を賜り、「晴景」と名乗らせている。将軍の偏諱を受けるのも、守護か幕府直臣並みの待遇である。

かろうじて「守護」であった定実だが、1533年には実家である上条上杉氏の定憲が為景に反抗して兵を挙げる。1536年の三分一原の戦いで定憲方に勝利した為景だったが、定憲方には越後国内では上田長尾氏(のちに長尾政景が出る)や国人である揚北衆が味方しており、国外でも蘆名氏、伊達氏と結んでいた。軍事的な局面打開に限界を感じた為景は定実の調停もあり、家督を晴景に譲って隠居することを決断する。

さて、定実には子がなかったことから、越後上杉家の家名を継がせるために養子を迎えることとしたが、白羽の矢が立ったのが、縁戚である伊達稙宗(政宗の曽祖父)の子時宗丸(のちの伊達実元)である。しかし、これには越後国内の揚北衆の反対があった。伊達家中でも稙宗に反対する子の晴宗が稙宗を幽閉しようとしたことから内乱状態になり、奥羽を巻き込んで天文の乱(洞(うつろ)の乱ともいう)に発展した。

定実は中条藤資らとともに、時宗丸の入嗣に反対する長尾晴景や揚北衆と戦うも敗れ、入嗣案は失敗に終わる。しかし越後の内乱状態は続き、守護代晴景から派遣されて栃尾城に入った弟の景虎が黒田秀忠の反乱を鎮めると、国人の一部が景虎の擁立を図って、晴景派と対立するに至った。ここで再び定実は調停に乗り出し、晴景が景虎を養子として隠居することで事態の収拾を図った。1548年、景虎は十九歳で越後守護代となる。

養子を得られなかった定実は二年後に死去し、越後上杉家は断絶、以後、越後に守護は置かれなかった。景虎は将軍義輝から「国主」待遇を許されるが、これに反対する長尾政景が反乱を起こす。景虎の戦いは続く。
「戦国人物紹介」

上杉家の血を引く最後の越後守護

023 上杉定実 【うえすぎさだざね】 1478?-1550 (前編)

年表のような文章を連ねるのも退屈なので、所与の情報からできうるかぎり想像の翼を広げてみたい。

長尾為景(くどいようだが上杉謙信の父)の話をしているが、生年の比定をした。一説に1471年とするものもあるが、為景の父能景が1459年の生まれとされているので、能景十三歳のときの子ということになってしまう。また、これだと謙信が生まれた(1530年)のは、為景六十歳となり謙信は晩年の子となる。謙信の兄の長尾晴景が1509年生まれとされていることからすると、もともとこの兄弟は年が離れているのだが(間に謙信の姉である仙桃院がいる)

為景の生年を1489年(あるいは1488年)とすると、為景は能景が三十一歳のときの子で、晴景は為景が二十一歳、謙信は為景が四十二歳のときの子となって、この方が三代の年齢に違和感が少ない。

さて、後者の説を取ると、越後守護の上杉房能を自害させて上杉定実を擁立したのは弱冠二十歳の頃ということになる。すると、今度はこの年で越後の実権を握ろうとしたというのは若すぎるのではないかという疑問が生ずる。

一つの可能性としては、為景の定実擁立は受け身のものだったのではないかということである。房能の側から前年に長尾家の家督を継いだばかりの為景を除こうとする動きがあり、これに抗した為景が房能を破ったとすれば理解できる。房能は戦いに敗れると自害したため、結果としてすでに房能の養嗣子であった定実を立てたということである。

そうなると、房能は為景を除くのに定実をともなわなかったのだから、この養嗣子との間には距離があったのかもしれない。新守護定実と為景は馬が合ったのか、このあとしばらく行動をともにする。
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