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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」 026 上杉景虎の補足

■後継者問題についての一考

中継ぎ・景勝
そうなると、景勝は道満丸が成人するまでのつなぎであり、後見役ということになる。武田勝頼の「陣代」と同じである。勝頼は信玄の四男で諏訪家を継いでいたために、武田家の家督を継ぐことが許されず、子の信勝が信玄の次の家督とされ、勝頼は陣代(後見役)になったという説がある(最近はこれを否定し、勝頼は武田家の家督を継いだという説もある)

また、謙信も同様に中継ぎだったという説もある。前に書いた通り、謙信には兄晴景がいたが、謙信は晴景の病が治るまで、もしくは晴景の子が成人するまでの中継ぎだったというものである。中継ぎが子をもうけると家督争いが生じかねないので、謙信は不犯になったというのは話が飛躍しすぎる感があるが、結局は晴景もその子も間もなく亡くなったため、謙信が家督を継ぐことになった。そうであれば、実子をもうけることに努めてもよかったと思うのだが、一度約した不犯の誓いは生涯守ったということだろうか。出家騒動は有名だが、中継ぎゆえに、権力への執着が少ないという説には従えない。むしろ、逆で、責任感が強いからこそ、家中を治めようとした結果が出家騒動ではないだろうか。帰国して一応は家臣たちをまとめることに成功しているのだから。

実子のいない上杉家当主
謙信に実子がいなかったのは有名だが、景勝も実子ができるのは遅かった。中継ぎゆえか、二十歳を過ぎても正室が与えられず、妻を娶ったのは御館の乱後、二十五歳の時である。しかしこの正室との間には子ができず(不仲説は疑問)、側室との間に嫡男定勝が生まれたのは1604年、関ヶ原の戦いの四年も後のことである。定勝の子綱勝は実子のないまま没し、無嗣廃絶となるところを岳父保科正之の仲介もあって、綱勝の妹が嫁いでいた高家吉良義央(よしなか、よしひさ)の子綱憲を末期養子として迎えることで上杉家は存続した。しかし、領地は三十万石から十五万石に半減となり、ただでさえ苦しかった上杉家の財政はさらに逼迫した。

ちなみに吉良義央とは『忠臣蔵』(歴史的には「赤穂事件」)の吉良上野介のことである。『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りを聞いた綱憲が、「父を助けに行く」と言って家臣に止められる姿が描かれている。



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綾御前(仙桃院、仙洞院) 【せんとういん】 1524?(1528?)-1609

長尾為景の娘で謙信の姉。長尾政景に嫁ぎ、娘の一人は上杉景虎に嫁ぎ、
子はのちの上杉景勝である。長尾上杉家の歴史を語る上では重要な女性。

「戦国無双」の影響か、「綾」の名が確定してしまいそうである。
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御館の乱を書く前に上杉景虎の後編。

「戦国人物紹介」

026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79 (後編)

1569年に対武田同盟として結ばれた越相同盟により、翌年越後に入った北条三郎は上杉景虎の名を与えられ、謙信の姪(清円院、長尾政景の娘で上杉景勝の姉か妹)を娶り、謙信の後継者としての待遇を受ける。翌年には道満丸が生まれている。しかし、上杉家は(景虎の要請にも応えず)武田家に対する軍事行動を起こすことはなく、同盟を主導した北条氏康も1571年に没し、子の氏政は武田寄りの態度を取ったこと(正室は信玄の娘黄梅院)、上杉家と北条家の根深い相互不信が解消しなかったことなどから、越相同盟は破綻する。北条家と武田家の間には再び甲相同盟が締結された。

この時点で景虎の立場は微妙なものとなったが、北条家から召還されることはなく、謙信も景虎を追放せず、景虎自身も小田原に帰ることなく越後に留まった。上杉家の人間として生きる道を選んだのである。

1572年の閏一月に謙信が関東に出陣すると、これに従って出陣する。おそらく初陣であろう。謙信は厩橋城の利根川対岸にある武田方の上野石倉城を落とし、川をはさんで信玄と対峙した。両軍の間に戦闘は行われず、上杉軍も撤兵するが、謙信の生前、景虎が軍事行動に参加したことが確認できるのはこのときだけである。このあと、謙信の死までの約六年間、景虎の行動はほとんど確認できなくなる。後継者の地位から外されたと思われる。北条家の血を引く景虎が後継者では、謙信は関東で戦えなくなるからである。関東の反北条方としては、景虎が家督を継いで上杉家が(景虎の実家である)親北条の政策を取れば立場がなくなってしまう。

しかし、景虎は一門としての地位を剥奪されることなく上杉家に留まっていた。関東経営を考えれば北条家の出自はむしろ弊害となっていたし、景虎派といえるような家臣が多くいたわけではない。とはいえ、隣の武田家の例、信玄の嫡子義信が外交方針に反対して殺され、家中が動揺した件などを見て、謙信も後継者問題には慎重になっていたのかもしれない。また、景虎の子道満丸は謙信から見れば唯一の孫の世代である。ついに謙信は景虎を後継者とすることができず、追放することもできなかったのである。

ここで長尾家の期待を背負って登場してくるのが長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)である。長尾政景の子(二男、長男は夭折)であり、上杉軍の先鋒を務める上田長尾氏の長として成長しつつあった。二人の軍歴の差はのちに御館の乱の趨勢を決定づけることになる。

1575年正月、謙信は顕景に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から上杉景勝に改めて自らの養子とした。景勝の敬称は「中城」とされたが、これを謙信の「実城(みじょう)」に類似したもの、あるいは次ぐものであるとし、景勝を後継者と決めたとする説が多いが、「実城」は隠居号でいわば現在の「会長」に相当する。「社長」に相当するのは「屋形」である(「屋形号」についてはここでは詳述しないが、誰でも称することができたものではない。足利氏一門や有力な守護大名、守護代でなければ称することが許されない)。「実城」は他家にも例があるが「中城」はなく、「中城」を「実城」に類似したものとすれば、景勝の地位は(次期)会長だったことになる。この場合、将来「社長」になる人物は一人しかいない。景虎の子道満丸である。景勝にとっても甥に当たる。こうして謙信は家中の破綻を招かず、妥協を図ったと考えられる。
「戦国人物紹介」

026 上杉景虎 【うえすぎかげとら】 1554?-79

北条氏康の七男(八男とも)。母は遠山康光の妹。氏政や氏照などの異母弟になる。一説には関東一の美男子だったという。

三国同盟が成立すると、武田家に人質として送られたというが、近年では否定する説が多い。初め北条幻庵の婿養子となって三郎を称すという。1569年、越相同盟が締結され、北条氏政の二男国増丸を謙信の養子に出すことが決められるが、幼少を理由に氏政が難色を示したため、翌年、代わりに三郎が越後に送られる。景勝の姉、あるいは妹(清円院、長尾政景の娘、謙信の姪)を娶り、謙信の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられる。1578年の謙信死後、上杉景勝と家督を巡って争う(御館の乱)が敗れて、自害した。

まとめるとこれだけの人なのだが、少し紙幅を費やしたいと思うのは、謙信の後継者として、景虎と景勝の地位がいまだに確定しないからである。景虎についての研究が進んでいるが、誰が後継者だったのかについてはいくつかの説があって定説を見ない。

景虎後継者説と景勝後継者説
1575年、謙信は景勝に弾正少弼の官職を譲り、名も長尾喜平次顕景から景勝に改めさせた(ちなみに、『信長公記』には1581年の巻に二ヶ所登場するが、いずれも「長尾喜平次」である)。また、この頃作られた軍役帳でも「御中城様」として一門の筆頭たる地位を与えられている。逆に景虎は軍役帳に名が見えない。しかし、このことは軍役を課される、すなわち家臣ということであるとして、景虎は特別扱いで、景勝は家臣扱いだったのではないかという説もある。

謙信の「遺言」に疑問を唱える声もある。謙信は卒中で倒れたとされるが、その枕元で直江景綱の未亡人が「家督は景勝に譲られますか」と尋ねたところ、口のきけない謙信はうなずいて意思を示したという話が残っている。しかし、卒中で倒れた謙信が意識を取り戻すのも不審であるし、この話自体作為的である。

景虎が後継者であったからこそ、景勝は先に軍事的行動を起こして春日山城の本丸、金蔵を占拠したのだという見方もできる。二つの説を並べてみると、最終的には勝利した景勝の方が分が悪い。

後継者二人説
越後国主、長尾家総帥の座を景勝に、関東管領職と山内上杉家の家督を景虎に、とする説である。たしかに越相同盟が破綻した後も景虎は追放されず、一門としての地位を保っている。また景勝も遅れて権力の強化が図られ、両者が並立した地位にあったと見ることはできる。 しかし、謙信自身、越後国主(守護職ではない)、関東管領、山内上杉氏の家督など、様々な地位や職を身にまとって、みずからの権力の強化、正当化を図ってきたのであり、後継者の段階で分散するようなことは考えにくい。

後継者不在説
行き当たりばったりで景虎を後継者にしてみたり、景勝に代えてみたり、結局は確たる後継者を決められないうちに急死したのではないかとの説もある。 人間五十年と唄った信長は1575年、四十二歳で織田家の家督を嫡男信忠に譲っている。謙信に実子はいなかったが、家臣の家名復興には関与しており(意図はともかくこれは信玄も同様)、謙信が後継者問題に手を打っていなかった、あるいは無関心だったということはないだろう。
 
ただ、後世の人にわかりづらいというのは、川中島の戦いのところでも書いたが、やはり上杉家の史家は怠慢ではないかというところに行き着くのだが。次回は御館の乱。
「戦国人物紹介」

025 上杉憲政
 【うえすぎのりまさ】 1523-79

従五位下兵部少輔・関東管領、初め憲当と書いた。上野(こうずけ、いまの群馬県)平井城主。河越夜戦に敗れ、力を失う。北条軍に圧迫され、越後に逃走。長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲った。

河越城攻めで旧勢力を糾合したためか、世代的にも上のように思われるが、北条氏康の方が八歳年上になる。謙信よりは七歳年上になる。ただ、家督を継いだのは九歳のときで、氏康の二十七歳(あるいは二十四歳)よりもはるかに早い。

敵である北条側の記録が残ったため、憲政に対する評価は散々である。幼少のころから甘やかされて育ち、政治を顧みず、白拍子を侍らせては遊芸に興じ、佞臣を近づけて忠臣を遠ざけた、このような具合である。貶める資料には事欠かない。父憲房が五十歳を過ぎてからできた一人息子であり甘やかされたと言うが、その父は憲政が三歳のときに死去している。山内上杉の家督と関東管領職は養子であった憲寛(古河公方足利高基の子)が継いだが、1532年には奪回している。しかし、憲政が山内上杉氏を継いだときには、関東管領とは言え、上野と武蔵北部を領するだけの地域勢力に転落していた。

北条氏に目を転じてみると、1541年には二代目の氏綱が死去、子の氏康が家督を継いでいた。この頃はまだ甲相駿(武田、北条、今川)の三国同盟は成立しておらず、北条氏は領国の西側で武田晴信、今川義元と勢力争いを繰り返していた。

氏康が西部で拘束されている状況を好機と見た山内憲政と扇谷朝定は、1545年九月、大軍を催して河越城に迫った。憲政は敵対していた古河公方の足利晴氏にも参陣を呼び掛けた。晴氏の室は氏綱の娘であったが、十月には包囲網に加わった。軍記物の類は連合軍の兵力を「八万」としているが、実際は二万程度であったという。二万としても、当時の関東では例のない大軍である。氏康は晴信との関係を改善し、義元とも一応の和睦を成立させたが、いつ領土問題が再燃するかわからない状態であった。連合軍はこのまま包囲を続けて氏康を締め上げれば、氏康が屈服し河越城を放棄せざるを得ないと見ていただろう。実際、氏康は山内上杉氏と近かった武田晴信を通じて講和の道を模索していたし、古河公方の晴氏にも繰り返し謝罪の使者を送っていたからである。

翌年になると、氏康は行動を開始する。四月に小田原を出て河越城に迫り、もっとも少数の扇谷軍を夜明け前に奇襲する。兵力に劣る扇谷軍は壊滅し、当主の朝定も戦死した。河越城の北条綱成らは城を出て古河公方の陣を襲撃、戦意の低かった公方軍は晴氏とともに潰走した。憲政の軍も敗北し、三千と言われる死者を出して敗北した。

以後は北条氏の攻勢にさらされ、家中の裏切りも相次いだため、1552年に越後に落ち延びて長尾景虎(上杉謙信)を頼ることになる。その後は景虎を養子とし、関東管領職、山内上杉氏の家督、系図、重宝を譲り、剃髪して光徹と称し隠居する。こうして憲政は静かな余生を過ごすかに思われたが、謙信死後の家督争いが憲政を再び政治の表舞台に呼び戻す。



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だからこの人誰?w

指揮兵数は多いものの、兵科統率はほぼ全滅。育てても合成素材になるだけ?
扇谷上杉朝定が敗死して扇谷上杉氏が滅んだ後も、扇谷上杉氏を称した人はいるんだけども、そこは割愛。南朝が北朝と合一を果たした後も後南朝というのがあるんだけども、ほとんど顧みられることはないのと同様に。後南朝は赤松氏をやるときに触れるでしょうが。きりがないというか、潔さというか、滅びの美学とでも言いましょうか。朝定が敗死して、扇谷上杉氏は滅亡、と。スパッと。

上杉景虎(謙信じゃなくて養子の方)について調べているのだが、これがなかなか面白い人物。

この人を生かした歴史を描こうとすると、景勝と兼続には死んでいただかねばらないと思うのだが(共存の目をなしとはしない)、生きて上杉家を継いでいたとすれば、東国には上杉、北条、武田の三国同盟が成立した可能性がある。そうなれば、信長の東進を妨げる十分な抑止力足り得たのではないかと想像してしまうのだが。この雄図を打ち砕いて、景勝を擁立したのが兼続とすれば、いかに狭量かと非難したくもなる(もとから兼続には批判的)。

景虎支援から転じて景勝を支援した武田家は上杉家と結ぶが、信長の武田攻めによって武田家は滅亡。上杉家も本能寺の変なくばほどなくして滅んでいたであろう。兼続のやったことは景勝を守って、上杉家を危うくしたのだが、この男は懲りずに、二十年後も同じ過ちを犯して上杉家を滅亡寸前にまで追い込んでいる。きれいごとばかりをぬかすが、大局が見えていないのである。

景虎の可能性じゃなくて、兼続批判になってしまったが。近日公開予定。
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