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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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「戦国人物紹介」

027 大熊朝秀 【おおくまともひで】 ?-1582

長秀とも。備前守。越後頸城郡箕冠城主。謙信の側近だったが、謙信のもとを去って信玄に仕え、勝頼の滅亡に従うという数奇な運命をたどる。

父は越後守護上杉氏の公銭方を務めた備前守政秀。朝秀も父の代からの段銭所を司り、段銭の収納に当たった。謙信の初期の側近として国政に参加した人物である。しかし所領問題から本庄実仍と対立。守護上杉系の官僚と長尾氏系の家臣の争いは謙信出奔の一因となった。

1556年、謙信の出奔騒動の際、長尾政景に遠ざけられたため反乱したが(信玄にそそのかされたともいう)、戻ってきた謙信に退けられて越中に逃れる。のち信玄に招かれ、そのもとで厚遇され、山県昌景の同心衆となり小幡虎盛の娘をめとる。信玄が上野箕輪城の長野業盛(業政の子)を攻めた際、のちに剣聖と言われる上泉秀綱と剣を交えて引き分けたという逸話も残る。

のち遠江の小山城代を務めるが、徳川家の侵攻にもよく持ちこたえており、内政だけでなく軍事にも秀でていたことをうかがわせる。1582年、信長の武田攻めで武田家は滅亡。朝秀は最後まで勝頼につき従い、天目山で運命を共にした。



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もとは越後守護上杉氏の家臣。越後「国守」の謙信に従ったが、最期は武田勝頼と運命を共にした。

武田、上杉と来て次回からしばらくは秀吉編です。

「羽柴」の名前の不思議と改易政策について取り上げます。お楽しみに。
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■コラム・戦国大名の権力

御館の乱の直接の原因は、謙信の死後、家督をめぐる景勝と景虎の確執にありますが、景勝の専制的な態度に不満を持った一部の家臣が景虎を擁立して内乱に発展したという見方もあります。乱が終息すると、上田長尾家の出身である景勝は景虎側だった三条城や栃尾城などを上田衆に与え、乱にはなんら功績のなかった樋口与六(のちの直江兼続)を側近として重用するなど、みずからの権力強化を進めます。

景勝と同盟を結んだ武田勝頼ですが、信玄の死後、跡を継ぐと跡部勝資や長坂光堅らの側近を重用し、信玄時代からの重臣を遠ざけたと言われています。跡部や長坂は君側の奸(くんそくのかん、主君のそばの悪臣)として武田家滅亡の一因ともされますが、長篠の戦いで重臣たちの反対にもかかわらず攻撃を主張したり、御館の乱の景勝との和睦交渉で賄賂をもらったりしたという話は俗説のようです。攻撃を決めたのも、和睦を決めたのも、最終的には勝頼の判断です。

これが景勝の場合は、恩賞の偏りとなって新発田重家の乱や安田顕元の自害、直江信綱の死などにつながりますし、勝頼の場合は『甲陽軍鑑』に見られるような、側近政治への批判となっていきます。『甲陽軍鑑』は高坂昌信(春日虎綱)が勝頼や側近を諫めるために書いた「諫書(諫言の書)」の体裁を取っているとされています。

本質的には、豪族連合の長であった謙信や信玄とは異なり、後継者たちは集権的な、あるいは専制的な統治体制の構築を目指します。そうしなければ、いち早く集権的な体制を取り、天下統一を進めていた信長に対抗できなかったからです。

家臣たちの生殺与奪の権を握って意のままに動かす、ほとんどの戦国大名はそこまでの権力を有していませんでした。同じ程度の兵力や領地を持った豪族連合の長に過ぎない場合がほとんどだったのです。謙信は信玄に追われた北信濃の豪族の支援のために出兵しましたが、家臣の中には得るものがないとして途中で帰国する者や最初から参加しない者もいました。さらには一向に収まることのない家臣の対立に謙信は嫌気がさして、出家騒動まで起こしています。武田信虎は早くから専制的な君主を目指し、他国から人材を集め自分だけの兵力を作ることを試みています。しかし、繰り返される戦争で甲斐国内が疲弊し、家臣たちの粛清もあったことから、板垣や甘利のような重臣たちの不満を招き、彼らの主導で甲斐から追放されることになります。

その点、ほとんど無から始めた、あるいは一から創り上げた信長という人(ただ、父信秀の功績は少なくない)は、誰にも気兼ねすることなく、思うように振舞うことができました。信長にとって家臣は天下統一のための駒に過ぎなかったのかもしれません。これを豪族連合の長である上杉家や武田家の君主が真似をしようとしても、いきなりは無理なんですよね。領内の豪族(代々の在地の領主)の支持に支えられているのですから、彼らの意に背くようなことはできないわけです。

他方、豪族たちも、他国から攻められたとき、あるいは国内で対立があったときに、指揮する人や、調停する人は必要でしたから、一方的にどちらかがどちらかの支配、服属関係にあったわけではありません。

家康にも酒井や本多、大久保など多くの豪族(在地領主)がいましたが、家康の場合は関東移封が転機となりました。これにより在地領主は代々所有してきた土地から切り離され、家康からあらためて所領を与えられるという形を取ることになりました。皮肉にも秀吉の命令によって家康の権力強化が図られたのです。家康の関東移封については、秀吉の改易政策の観点からまた後日。



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武田家滅亡のA級戦犯とされるが、事実ではない。
■御館の乱・おかわり

御館の乱をめぐるいくつかの視点

「玉」の行方

物事の趨勢を左右する大事なものや人のことである。謙信の在世中、その正式な家督相続者にされたと思われる道満丸(上杉景虎と長尾政景の娘の間の子、景勝にとっても甥に当たる)こそが「玉」であった。これを手にした者が、次の上杉家を統べることができるのである。謙信の「遺言」に従って春日山城の本丸に入った景勝は、景虎に道満丸の引き渡しを要求したと思われる。しかし、景虎は道満丸が幼少であることなどを理由に景勝の要請を拒否したのではないだろうか。まだ八歳の子供である。景虎としては分別がつくまで、要するに、父の意向を呈して動けるようになる歳までは手放したくないというのが本音だったろう。結局、交渉は決裂し、景虎は道満丸を連れて春日山城を退去し、御館に入ってしまう。

開戦当初は重視された道満丸だったが、乱が景勝の勝利に終わるころには不要のものとなっていた。景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝は上田衆を中心とした集権化を図っていた。そんな景勝には古い権威も妥協の産物であった「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。しかし、この後継者をめぐる「内乱」は謙信の意向とは遠いものだったろう。景勝は異常と言っていいほど寡黙だったが、これには謙信の意向とは異なり、家督継承が血で染まってしまったことも一因だったのかもしれない。

痛くない領地割譲

乱の転機となった景勝と勝頼の和睦。その交渉条件だが、黄金一万両というのはおそらく破格の条件だっただろう。長篠の戦いに敗れて軍事力の再建に努める武田家であるから、軍資金に余裕があったわけではない。もう一つの条件である北信濃飯山城と東上野(西は武田領)の割譲だが、この二つと領地とも景虎派の勢力があった地域である。もとは上杉家の領地とはいえ、景勝からすれば敵方の勢力地である。勝頼に渡したところで景勝の懐は痛まないのである。勝頼としてもそんなことはわかっていただろう。要は領有の正当化ができればよかったのである。勝頼は景勝と景虎の和睦交渉を仲介すると言ったが、景虎とはほとんど交渉していない。

景勝の展望

景勝は乱のことを「不慮之錯乱」などと言っているが、これは景虎も同じである。双方とも最初から戦うことを想定していたわけではない。しかし、内乱になった以上、景勝はその後の(勝った後の)展望をどのように描いていたのだろうか。まず眼前の勝ちを拾うためには後顧を憂えている余裕はなかったのかもしれない。

越後国内を二分しての争いとなり、乱により上杉家の戦力は大きく落ちた。戦略的劣勢を覆すためにはやむを得なかったとはいえ、武田家との和睦で信濃、上野の所領も割譲してしまった。また謙信時代、織田家との外交方針は同盟から敵対に転じていたが、反織田の武田家と同盟を結んだことから、景勝も反織田の立場を取り続けることになった。武田と上杉の甲越同盟は織田、徳川、そして北条と周囲を敵対勢力に囲まれることとなったのである。同盟以降、武田家は東上野で、上杉家は北陸方面でそれぞれ戦いを進めていくが、越後では御館の乱の恩賞に不満を持った新発田重家の乱が起こり、乱は長期化。武田攻めが始まっても上杉家は援軍を送れず、武田家は滅亡し、同盟も消滅した。以後、越中、信濃、上野から織田家の攻勢を受け、景勝も滅亡を覚悟するに至る。
「戦国人物紹介」

■御館の乱 1578-79 (後編)

勝頼との和睦交渉の間も、春日山城の景勝と御館の景虎との間には戦いが繰り返されていたが、いずれも景勝側が勝利していた。また各地の景勝派も善戦しており、武田軍の撤退で景勝には光明が差してきた。残る脅威は北条氏の侵攻であったが、上田長尾家の坂戸城は北条氏の攻勢を食い止めた。そうしているうちに十月となった。冬が近づき、北条軍は撤退を余儀なくされた。こうなると、景虎は春が来るまで待たねばならない。景勝は春が来る前に景虎を討たなければならない。

越後国内では景勝派が優勢に転じていた。景虎は戦局の転回を図って上野の北条(きたじょう)景広(高広の子)を御館に迎えるが、景広は翌年二月の戦いで荻田長繁に討たれた。景虎は頼みとしていた指揮官を失い、孤立状態に陥った。三月十六日に景勝軍が御館に総攻撃をかけると、景虎は敗れて翌日鮫ヶ尾城に落ち延びた。景虎側には景虎も含めて優秀な指揮官がおらず、戦略的な優位を戦術的勝利に落とし込むことができなかった。一方の景勝側は景勝自身が戦場経験豊富な指揮官であったし、上田長尾家という戦力もあったことから、戦術的勝利を確保しながら戦略的な不利を外交交渉で転回し、最終的な勝利へと持ち込むことができた。

御館が攻められると、謙信に関東管領職を譲って隠居していた上杉憲政は景虎の子道満丸をともなって景勝のもとに和睦の交渉に赴いた。古い権威の力を借りて和を請うというのはよくあることである。長尾為景も謙信も越後守護上杉氏の力を借りて和睦に至ったことがある。隠居していた憲政にもまだその程度の価値は残っていたようだが、景勝のところへ赴く途中で道満丸もろとも殺された。景勝の指示、家臣の独断など諸説あるが、真相は不明である。いずれにしろ、景虎に勝利し、謙信の後継者の地位を固めつつあった景勝には、古い権威も「正当な後継者」ももはや必要なかったのである。景虎は鮫ヶ尾城に逃れたが、景勝軍の追撃が続き、二十四日に落城、景虎は自害した。妻の清円院(長尾政景の娘)も自害した(清円院は御館で自害したとも)。以後も景虎派の抗戦は続き、神余親綱や本庄秀綱を攻めて、内乱が終息したのは景虎の死の一年余りあと、1580年六月のことであった。

御館の乱により景勝への集権化は進んだが、上杉家の軍事力は衰退を余儀なくされ、織田家などの攻勢に対しては防戦一方となる。また、景勝の実家である上田長尾家への恩賞が厚かったことから、新発田重家ら国人衆の不満を招き、重家の反乱鎮圧には六年余を要すことになった。また武田家との同盟は間接的に武田家滅亡の一因となった。武田家は織田、徳川、北条と三方を敵に囲まれることになり、景勝には武田家を支援する余力はなかった。織田家などの武田攻めに遭うと、武田家はわずか一ヶ月で滅んでしまった。これにより、上杉家も周囲を敵対勢力に囲まれ、滅亡寸前まで追い込まれてしまう。この窮地を救ったのが本能寺の変である。
「戦国人物紹介」

■御館の乱 1578-79 (前編)

御館(おたて)とは、謙信に関東管領を譲った上杉憲政の居館で、春日山城下に築かれた館のことである。いまは御館公園として跡が残っている。御館の乱とは、謙信の急死後に養子である上杉景勝と上杉景虎の間で起こった争いであり、越後国内を二分した内乱である。

1578年三月九日、謙信は春日山城内で倒れ、意識が戻らないまま四日後に死去した。その後、謙信の葬儀が行われ、景勝、景虎とも参列したというから、謙信の死後すぐに乱が勃発したのではない。一般的には、景勝はいち早く春日山城の本丸に入り、金蔵、兵器蔵を押さえ、謙信の後継者を宣言し、春日山城の二の丸にいる景虎に攻撃を開始、これにより景虎は二の丸を退き、上杉憲政のいた御館に入ったと言われる。ただ、良質な資料では景勝、景虎のどちらが先に攻撃を仕掛けたかはわからず、両者の間に戦端が開かれたのが確認できるのは、五月五日の大場合戦からである。また景虎が御館に入ったのは、五月十三日のことである。およそ二ヶ月間は景勝体制が承認されていたことになるが、両者の確執が越後全土を巻き込んだ内乱へと発展していくことになる。

景勝側には謙信の側近である斎藤朝信や直江信綱(景綱の女婿)らのほか、下越の豪族である揚北衆の大半(色部長実、新発田長敦、本庄繁長ら)が味方した。景虎側には上杉憲政(前関東管領)、上杉景信(古志長尾家の当主)、本庄秀綱、北条(きたじょう)高広・景広父子らが味方した。このほか、周辺の勢力もことごとくが景虎を支持した。実家である北条氏のほか、北条氏と同盟関係にあった武田氏、伊達氏、蘆名氏などである。このことから、国内的には景勝が、国外的には景虎が後継者と見られていたのではないかと見る向きもある。家臣たちは景勝を実質的な後継者(家督を継ぐかは別として)と見ていたが、(謙信は)国外への周知はしていなかったということになる。

五月十七日、景虎側は桃井義孝(伊豆守、信濃飯山城主)を主将とする約六千の軍を春日山城に向かわせるが、春日山城に攻め入ったところで景勝側の反撃に遭い敗退、桃井も戦死した。緒戦に勝利した景勝だったが、状況は景勝側に不利であった。中越の大半は景虎派であり、景勝派の下越、実家の上田長尾家の本拠である坂戸城とは分断されており、さらに坂戸城方面には上野厩橋城から北条高広・景広の軍が迫っていた。ここが突破されれば、関東からの北条氏の進撃路が確保されることになる。しかし、景虎の実家である北条氏の氏政・氏照は鬼怒川河畔で佐竹氏と交戦中であり、景虎に援軍を送ることができなかった。そこで同盟関係にあった武田勝頼に軍勢の派遣を依頼した。これを受けて武田信豊(典厩信繁の子)らが率いる二万の武田軍が信越国境に送られた。これだけの戦略的優位を築いた景虎の外交能力は非凡と言える。

景勝は窮地に追い込まれたが、北信濃と東上野の上杉領割譲と一万両の大金を条件に武田勝頼との和睦交渉を開始する。また、御館を攻め、迎え撃ってきた景虎軍を撃破した。景虎側は居多ヶ浜で上杉景信が討ち死にするなど大敗して御館に引き上げた。景虎側は御館にこもって武田軍の救援を待ったが、勝頼に逡巡が生じる。このまま景勝を攻めても少なくない損害が出ることは疑いない。また景虎が勝利すれば、武田家は北から東、南まで北条方の勢力に囲まれることになる。一方、景勝と和睦すれば無傷で領土と大金が手に入るのである。ここに来て勝頼の態度は一転し、景勝との和睦に応じ、景勝と景虎の間の和睦の仲介に動くことになる。結局、勝頼は「和平がなった」として八月二十八日に甲斐に帰国する。武田・北条・上杉(景虎)の三国同盟が成る機会は永遠に失われた。そして、この勝頼の打算的な態度は北条氏政の恨みを買うことになる。信長の武田攻めに際して、氏政は勝頼の味方をするどころか、敵となって武田領に攻め込んでくるのである。
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