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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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イギリスの関与をほのめかしたり、犯行状況の説明に30分以上費やしたり、引っ張るだけ引っ張っておいて、結局、様々な説を並べただけかよ、って感じでしたね。いろんな人が好き勝手に自説を展開しているだけですし。

実況見分しているだけあって、京都見廻組説よりは新選組説の方が説得力があるかなあという感じですね。あと、いままで頭の中にあった暗殺状況は今井信郎(見廻組)の証言ベースだったということがわかったので修正しておかねば。
 

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■コラムのコラム
 
 まあ、前回の「関東足利家」という表現はおそらく正しい書き方ではなくて、関東公方(家)とか鎌倉御所と書いた方が適切かと思います。そのうち鎌倉にいられなくなって「古河公方」とかなるわけですけどね。いまのところ「氏」と「家」とは厳密には区別して使っていませんが、「甲斐武田氏」のように「支配地域」+「名前」だと、京の足利家(将軍家)と区別して呼ぶなら「関東の足利家」なんですね。名前からイメージはしやすいと思います。

 さて、小学生の頃から歴史が好きで、伝記やら歴史マンガを読んでいましたが、得手不得手というのはあるもので、日本史に比べると世界史は苦手でした。カタカナがダメなんですねw ルイ13世と14世と16世と18世と区別がつきません(これに限らない)
 一方で、日本史だと藤原とか源とか足利とか徳川とか同じ名字の人がたくさんいますが、これは覚えられるんですね。漢字だと頭に入ってくるようです。将軍の名前を順番に言うのは無理ですが・・・。
 また、旧国名なんかもゲームで覚えているから、割と出てくるんですね。下総と上総の位置関係はよくわかりませんが・・・。
 なんでも暗記にして大学受験を乗り切りましたが、いまではすっかり忘れてしまいました。使わない知識なんてそんなものです。

 ただ、幕末は難しいと思うんだよなあ。1853年の黒船来航から勉強すればいいと思いますが、誰が何を考えているかわからないし(そしてまたよく変わる)、ある人の行動もその人自身の考えに基づいているのかと思えばそうでなかったりもする(坂本龍馬も、自分の考えで薩長を同盟させたのかもしれないが、薩摩あたりに踊らされている可能性は否定できない)。今回の大河ドラマ「龍馬伝」を我慢しながら見ているのも、龍馬の最期がどう描かれるか気になっているからなんですよね。
 
俳優の佐藤慶氏が亡くなられました(81歳)

数々の歴史ドラマに出演されていますが、印象に残っているのは、なぜか「真田太平記」(1985-86年)の山中某役。徳川方の忍びの元締めで、主人公の真田家とは対立関係にあるのですが、これが見るからに悪役なんですね。顔といい、声といい。
「この人は悪役です」といちいち説明してしまうと興をそぐ場合があって、そういうときに、見るからに悪役というのは演技力の高さを表しているのでしょう。

ご冥福をお祈りいたします。
 教科書のような硬めの文章を書いていると肩がこりますし、読む方も疲れるでしょうから、たまに普通の文章をw

 みなさん、お父さん、お母さんの名前はご存知でしょうか。よほどの家庭の事情がない限りはご存知かと思います。では、お父さんのお父さん、お母さん、お母さんのお父さん、お母さんはどうでしょうか。戦前生まれの女性の名前だと覚えづらいかもしれません。私も母方の祖母の名前はすぐには出てきません。さらに、そのご先祖様となると難しいでしょう。

 自分はご先祖様に関心がなくても、将来、子供が自分のご先祖様に興味を持つことは十分にあり得ることです。そのときにご先祖様の名前が出てこないというのは恥ずかしいことではないでしょうか(最近はこういう話をすると、結婚しないし子供も作らないからいい、という人も増えてきましたがw)。

 さて、ご先祖様を調べるときに、重要な資料となるのが「戸籍」です。過去帳だと通常は命日しかわからないので系図的なつながりがわからないかもしれません。俗名が書いていなくて法名だけだとなおさらわかりません。

 お役所に行くと戸籍謄本がもらえるのですが(有料)、「相続の関係で調べていまして・・・」とか適当なことを言うと、さらにさかのぼってもらえるでしょう。ここで注意しておくのは、いまの戸籍には保存年限があるということです。だいぶ電子データ化されてきましたが、紙ベースの古い戸籍は一定の年数がたつと捨てられてしまうことがあるんですね(除籍簿に入った戸籍は80年しか保存義務がなく、すでに一部のお役所では廃棄が始まっている)。そうなると、物理的にさかのぼれなくなってしまいます。思い立ったらなるべく早く戸籍をさかのぼって取得しておくことをお勧めします。また、戸籍は何度か改正になっていることがあるので、その場合は改正前原戸籍(はらこせき)を取得しましょう。市町村や都道府県を越えて取得する必要が出てきた場合には、司法書士に依頼するのも一つの方法です(有料)

 意外なところに自分のルーツがあるかもしれません。この先はまた調べ方がありますが、それはまたいずれかの機会に。
 
■関東の名門・上杉家

 のちに上杉家の名跡を譲られる長尾景虎(上杉謙信)の本姓は桓武平氏とされるが、もとの上杉氏の本姓は藤原氏である。藤原重房が丹波上杉荘を管理しており、のちに上杉氏を称することになる。
 重房の子頼重の娘清子は足利氏に嫁ぎ、高氏(のちの尊氏)、直義の兄弟をもうける。以後、多くの分家が出るが、関東管領として関東の治世に重きをなした、というか関東公方とともに関東の争乱の中心となる。

・山内上杉氏
 頼重の孫憲顕に始まる。憲顕は鎌倉府(室町幕府が置いた地方機関の一つ。関東八カ国と伊豆、甲斐を統括。尊氏の四子である基氏の子孫が鎌倉公方を世襲)の執事を務める。のち上杉氏の宗家となり関東管領職を承継する。
 憲顕の子憲方が鎌倉山内に居を定めたため山内上杉という。
 十代顕定は扇谷上杉定正と対立、1507年、越後守護の上杉房能(越後上杉氏)が守護代長尾為景(上杉謙信の父)に攻め殺されると、越後に出兵し、一時は為景を越中に追うが、1510年再起した為景軍と戦って敗死する。以後は衰退し、十二代憲政は北条氏康に追われて越後の長尾景虎を頼り、景虎に上杉の家督と関東管領職を譲る。

・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏
 頼重の子重顕が鎌倉扇谷に屋敷を構えたことによる。上杉禅秀の乱で四代氏定が自刃。その後も当主を相次いで失い、太田道灌らは定正を擁立する。道灌の活躍で大いに名を高めるが、のちに対立して定正が道灌を謀殺したため、衰退する。朝興・朝定は北条氏と戦うが敗れ、朝定の敗死により扇谷上杉氏は滅んだ。
 
・犬懸(いぬかけ)上杉氏
 頼重の孫憲藤が鎌倉の犬懸谷に住んだため犬懸上杉氏と呼ぶ。憲藤の孫氏憲(禅秀)は関東管領となるが、関東公方の足利持氏と対立し、更迭される。1416年、禅秀は関東周辺の豪族に呼び掛けて決起、持氏に対して反乱を起こす。一時は鎌倉を制圧するなど勢力を拡大するが、今川氏、佐竹氏などの反攻を受け、禅秀は自害し、犬懸上杉氏は滅んだ。

 ほかにも詫間(たくま)上杉氏、深谷(庁鼻、こばなわ)上杉氏、越後上杉氏など一族は多いが、江戸時代に大名として残ったのは、山内上杉氏の憲政から上杉の家名を譲られた長尾景虎(上杉謙信)の養子上杉景勝の米沢藩だけである。もとの藤原姓上杉氏の血筋は大名として残らなかった。
 
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