兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
おかげさまでコンスタントに更新できています。「戦国人物紹介」がメインになるはずですが、まだ4人(9回)しかやらずに済んでいます。コラム(補足説明)が多いせいですね。書き溜めているので、週末にでも出していきたいと思います。
「江戸時代に戸籍はない」と言ってしまうと若干語弊があります。
徳川幕府が全国の領民から税を取らなかった理由についてははっきりしていません。幕府ができたころは各地の金山・銀山からの収入もあり、財政的にも豊かなため徴税の必要がなかったのではないか、ということも言われています。
では、江戸時代に幕府が全国の領民を把握していなかったかというと、そんなことはありません。江戸時代には「寺請制度」というものがあり(キリシタンでないことを寺院が証明する)、各地に檀家制度ができました。また「宗門改帳(宗旨人別帳)」があり、宗派と檀家のお寺を記載する仕組みがありました。これが戸籍の代わりを果たすんですね。
「江戸時代 戸籍」で検索が入ったので少し解説します。
「江戸時代に戸籍はない」と言ってしまうと若干語弊があります。
そもそも、なぜ「戸籍」を作るのかというと、徴税(税金を負わせる)や徴兵(兵士として集める)のためです。
逆にいうと、徴税や徴兵ができない行政組織は戸籍を作らない、というか作るだけの支配力がないので「作れない」んですね。
ただ、徳川幕府の場合は別の事情があって、この行政組織は全国の大名を支配していましたが、全国の領民から税を取り立てることはありませんでした。例えば、土佐でお米を売ったり買ったりしても「幕府に」消費税や所得税を納めるということはありません。
秀吉の場合は全国で「太閤検地」をおこなって、石高を把握し、朝鮮出兵の際に各大名がどれだけ兵士を負担するかの目安としました(江戸時代も大名ごとに検地がおこなわれ、「検地帳」が作成されている)
徳川幕府が全国の領民から税を取らなかった理由についてははっきりしていません。幕府ができたころは各地の金山・銀山からの収入もあり、財政的にも豊かなため徴税の必要がなかったのではないか、ということも言われています。
では、江戸時代に幕府が全国の領民を把握していなかったかというと、そんなことはありません。江戸時代には「寺請制度」というものがあり(キリシタンでないことを寺院が証明する)、各地に檀家制度ができました。また「宗門改帳(宗旨人別帳)」があり、宗派と檀家のお寺を記載する仕組みがありました。これが戸籍の代わりを果たすんですね。
PR
いまの口蹄疫問題の赤松農相もそうだし、阪神・神戸大震災のときの村山首相もそうだが、社民党(旧社会党)の人たちには危機管理能力が欠如している。現実認識ができず、対応が後手に回るから被害が拡大するのである。ここまでいくと、もはや「人災」と言っていい。
戦後、日本の平和が維持されてきたのは、日米安保と自衛隊のおかげだが、この党の人たちは「平和憲法」があるおかげで平和だったと本気で思っている人たちである。
水戸の話ついでにやってみようかwww(すまん)
「ミトなはなしbyぼっこ先生」これからのあらすじ(勝手な妄想)
佐幕派(徳川幕府支持派)にとって、水戸というのは「獅子身中の虫」以外の何物でもないんだよね。
家康は石橋を叩いても渡らないくらいの慎重な人で、徳川家を残すにあたっても、将軍家以外に「御三家」というものを創りました。ただし、尾張は紀伊は将軍家(宗家)の血が絶えたときのスペアとして創設されたのですが、水戸だけは違ったようです(水戸出身である最後の将軍慶喜については後述)
また、将来、幕府と朝廷が対立するようなことがあった場合に、どこかの家が朝廷に味方すれば「徳川」の家名は残せるとの判断もありました。
実際、維新時にあって尾張はさっさと朝廷に味方しています。
水戸も光圀(水戸黄門)が、近衛信尋(実はこの人は御陽成天皇の子で五摂家の一つである近衛家の養子となった人物)の娘を正室に迎えていることから、「万が一」のときには朝廷側につくことを期待されていたと考えられます。
さて、徳川幕府は七代将軍家継が死去すると、家康以来の宗家の血が絶えることになりました。このときに御三家から出て、八代将軍となったのが、暴れん坊でも、西田敏行でもなく、紀州出身の吉宗でした。この前後、ライバルとなった尾張とは将軍後継をめぐって相当にもめたらしく、(紀州内でも?)暗殺まで行われたのではないかという印象すら受けます。吉宗が将軍となってからも、尾張は何かと吉宗に盾を突いて、最終的には処分を受けています。
この吉宗が家康にならったのか、あえて家康の意向を無視したのか、創ったのが「御三卿」です(三家がそろったのは吉宗の死後)。吉宗の子孫だけを将軍にしようという仕組みであり、この時点で、徳川将軍家は紀州の血統に乗っ取られたといえます。
しかし、現実は吉宗の思惑通りには行きませんでした。吉宗以降の将軍家も、御三卿もスムーズに家督継承が行なわれなかったからです。御三卿の一つ、清水家などは最初から最後まで養子ばかりです。そんな中、御三卿の一橋家に養子に入ったのが水戸出身の慶喜です(他の徳川家から御三卿に養子入りするのは可能だった)。そして、幕府と朝廷が対立した幕末に「朝廷に味方すべき」水戸出身の慶喜が将軍になってしまったのです。そんな慶喜が戊辰戦争で取った行動は「ひたすら朝廷に恭順」でした。こんな人をトップにおいて幕府は戦えるわけがありません。まあ、これは慶喜や水戸に対する一つの見方であって、徳川慶喜という人物はもっと複雑な人物です。
光圀の話に戻りますが、彼が朱子学にかぶれて始めたのが「水戸学」です。光圀が始めた『大日本史』の編纂を中心に水戸学が興るのですが、この『大日本史』が完成したのは、明治も終わりに近づいた1906年です。幕府が滅んでも編纂作業を続けていたってことですね。光圀は藩の財政すら傾けて編纂に当たったと言いますから、水戸藩の領民はいい迷惑でした。
この「水戸学」、幕府の御三家である水戸家の編纂なのに(水戸家の編纂だからというべきか)、うたっているのは尊王論(君主は将軍ではなく天皇)なんですね。これがのちに幕末の尊王攘夷論や尊王倒幕論につながっていくのですから、幕府にとって水戸は獅子身中の虫と言わなければならないのです。
幕府と朝廷が対立した場合は朝廷に味方せよ、というのはいいとしても、水戸学を始めて幕府と朝廷が対立する原因を作ってしまうとは、光圀の祖父である家康も想像しなかったでしょう。ちなみに、幕末の水戸藩は天狗党事件で内ゲバ(内乱)状態で、幕府の役にも朝廷の役にも立ちませんでした。
綱吉が「生類憐みの令」を出しても肉食していたとか、日本で初めてラーメンを作ったとか、納豆の話(?)とかはぼっこ先生にまかせた!w
いま読んでいる本。
『逆説の日本史16江戸名君編』。サブタイトルは「水戸黄門と朱子学の謎」。
井沢元彦は昔はNHKの歴史番組に出てたよなあと。このシリーズを読んでいるのは、ふと書店で見かけた第5巻を読んだからなんですね。鎌倉幕府の成立について書いているのですが、非常に納得のできる内容でした。タイトルや内容にアンチな人もアレルギーがある人も読んでみると参考になるところが多いでしょう。いまは文庫版も出ています。
ぼっこ氏がブログで書いていた、不良少年だった水戸光圀が『史記』の伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)伝を読んで改心したという話もようやく納得しました(というか思い出したというべきか)
伯夷・叔斉というと、殷王朝を滅ぼした周王朝に反対してハンガーストライキ(山にこもってわらびだけを食べて餓死した)をした兄弟というところだけ覚えていたのですが、もとはといえば、孤竹国の王子で王位を譲り合って出国した兄弟でした。
父王は三男の叔斉に後を継がせるよう遺言しますが、叔斉は兄が継ぐべきと譲りません。兄の伯夷は父の遺言を実行すべく国を出ますが、叔斉も兄を追って国を出ます(結局、二男が王に立てられた)
このへんの王位を譲り合うところが光圀に感銘を与えたのだろうという話です。光圀にも兄頼重がいましたが、二人とも側室の子であったため、頼重は水戸家を継ぐことができず、のちに松平頼重として讃岐高松藩主となります。結果的に水戸藩主となった光圀ですが、兄頼重の子を養子に迎えて水戸家を継がせます。また、自らの子を兄の養子として讃岐高松藩を継がせています。兄の血統に本家を継がせるために子供を交換したわけです。
詳しいいきさつは本書を読むか、ぼっこ氏のブログを読んでねw
4月29日にこのブログを始めて、ロボット(クローラ)型の検索サイトに登録されたのが、5月8日頃。約10日間でしょうか。ブログを更新すると、「忍者ブログ」の最新記事に掲載されるので、直接ブログへのリンクが貼られていなくても、時間さえたてば、ほぼ自動的に検索サイトでヒットするようになります。
ラインナップにたくさん人物名をあげておいたので、何かでヒットするかもしれません。今回は検索ワードも見ながら記事に反映させていければと思ってます。
ラインナップにたくさん人物名をあげておいたので、何かでヒットするかもしれません。今回は検索ワードも見ながら記事に反映させていければと思ってます。
最初に検索されたのが「足利氏姫」。これは前回書きました。次に検索されたのが「武田義信 子孫」。15歳で今川義元の娘を妻とし、30歳で自害させられていますから、子孫がいてもおかしくはないでしょう(義信の子孫と称する家はある)。義信の兄弟(信玄の子)では、信玄の二男竜芳や七男信清の子孫などが残っています。兄弟や子供多いと家名を残す可能性は高くなるんですけどね。豊臣家は・・・。
さて、ヨーロッパではギリシャの財政危機が問題となっていますが、今年に入ってから日本の国家財政についても「危機的」と公言する論調が目立ってきました。国債や地方債などを合わせた公的部門の借金は900兆円に達しようとしています。日本人の人口で換算すると、一人約700万円になるそうです。生まれた瞬間に700万円の借金を背負っているわけですね。
この国債等は(日本の場合)基本的に日本国内で買われていますが、一方で日本人の金融資産が約1,400兆円あって買い支えることができる、と言われてきましたが(日本人が直接国債を買っているわけではない)、最近は1,400兆円を超えるようになると危ない、という言われ方もされるようになってきました。いまの調子でいくと、5年後、10年後にはそのくらいに達するのではないかという観測です。
ただ、実際に国債等の残高が個人の金融資産を超えたからといって、それが国債等のデフォルト(債務不履行)につながるわけではありませんし、公的部門には負債の一方で資産もあります。とはいえ、債務残高の規模にかかわらず返済(国債でいえば償還)ができなければ日本は信用を失い、国家財政は破綻します。
イギリスの政権交代に注目してますが、財政赤字の削減(これは返済の問題)ができるのか、社会保障の縮小や増税ができるのか、ギリシャに限らず、多くの国が同様の問題に直面しています。
■関東足利家(中)
この人がキーマン 足利成氏 【あしかがしげうじ】 1438-97
鎌倉公方足利持氏の子。初代将軍尊氏の四男基氏を鎌倉公方の初代とすると五代目に当たる。父持氏は永享の乱で幕府と対立、幕府軍・上杉氏らに敗れて自害する(1439年)。結城氏朝らが持氏の遺児を擁して再び挙兵する(結城合戦、1440-41年)が敗れ、氏朝は自害、遺児も斬られるが、成氏は幸運にも生き延びる。京で嘉吉の乱が起こったためである。
結城合戦の祝勝会として開かれた宴席で守護大名の赤松満祐が六代将軍義教を暗殺するという事件が起こったため、成氏は処刑をまぬがれる。なお、成氏の幼名や結城合戦前後の動向については不明な点もある。
関東の諸勢力を中心に鎌倉府再興の動きが起こり、成氏は十二歳で鎌倉公方として迎えられるが、鎌倉府のもとには持氏派や反持氏派の上杉氏らが集まっていた。依然、対立が続いたのである。
1454年に成氏は関東管領の山内上杉憲忠を謀殺するが、これが三十年間続く享徳の乱の始まりとされる。翌年には武蔵分倍河原の戦いで扇谷上杉顕房らを破る。
幕府は上杉氏の支援を決め、朝廷から成氏追討の綸旨を受ける。成氏は朝敵となったのである。山内上杉氏は憲忠の弟房顕を立て、扇谷上杉氏も家宰太田資清(道灌の父)らが顕房を擁立して態勢の立て直しを図る。房顕は父の実家である越後上杉氏の、顕房は駿河守護今川範忠(義元の曽祖父)の援軍を仰ぐ。これらの圧迫を受けて、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河に移る。以後、これを古河公方と呼ぶ(1455年)
成氏は結城一族や小山氏、宇都宮氏、小田氏などの豪族の支援を受けて戦いを継続。幕府の改元にも従わず、「享徳」の年号を使い続けた。
1457年には将軍義政の弟政知が「公方」として下向するが、成氏の力が強く、鎌倉には入れず伊豆堀越に御所を置いた(堀越公方)。以後は古河公方側と堀越公方・上杉氏側が関東を二分して戦うことになる。
幕府による古河公方側の切り崩し工作がある一方、上杉氏の足並みの乱れなどもあり、一進一退の攻防が続くが、1482年(1483年)になってようやく成氏と幕府の和議が成立して乱は終息する。三十年間戦い続けて、ようやく幕府に地位を認めさせたと言える。
成氏のあとに北条早雲が登場して関東はそのまま戦国時代に突入することになる。
基本的な構図として、鎌倉公方(成氏以降は古河公方)は幕府からの自立を目指す傾向にあったが、関東管領上杉氏は幕府に従う姿勢を見せたので、両者の間には絶えず緊張感があった。また、それぞれを支持する(あるいは擁立する)関東の諸勢力もあり、両者の対立は長引いたが、最終的には北条氏の登場により、退場を迫られる。代わって登場するのが越後の長尾景虎、上杉謙信である。