兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
http://www.amazon.co.jp/
アマゾンでも話題の一冊ですが、池上彰氏がお勧めしていたので買ってみました。
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
マイケル・サンデル 鬼澤忍訳 早川書房
袖からの引用
「正しい行ない」とは何か?
1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?
金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか?
前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか-。
つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない-にもかかわらず決断をせまられる-問題である。
哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。
アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。
ハーバード大学史上空前の履修者数を記録しつづける、超人気講義「Justice(正義)」をもとにした全米大ベストセラー、待望の邦訳。
「哲学」の本なんでしょうかね。哲学というと難しそうなイメージを誰しもが抱くと思いますが。
そもそも、「哲学」とは何か。いつもの新明解国語辞典(第四版)から。
てつがく【哲学】
1.宇宙や人生の根本問題を理性的な思弁により突き止めようとする学問。
2.自分自身の経験から築き上げた人生観(世界観)。
今回は1の方でしょうね。来月、再来月と出張があって、長時間の電車移動があるので、
ちょうどいいかと。その前に読んでしまうことは避けたいw
あと、もう一冊。
『昭和天皇 第四部 二・二六事件』 福田和也 文藝春秋
昭和天皇の二つの重要な決断、これが日本を救います。
ハードカバーが2冊あったらしばらくは持つだろうなあ。すでに読書の秋突入の感もあります。
アマゾンでも話題の一冊ですが、池上彰氏がお勧めしていたので買ってみました。
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』
マイケル・サンデル 鬼澤忍訳 早川書房
袖からの引用
「正しい行ない」とは何か?
1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?
金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか?
前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか-。
つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない-にもかかわらず決断をせまられる-問題である。
哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。
アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。
ハーバード大学史上空前の履修者数を記録しつづける、超人気講義「Justice(正義)」をもとにした全米大ベストセラー、待望の邦訳。
「哲学」の本なんでしょうかね。哲学というと難しそうなイメージを誰しもが抱くと思いますが。
そもそも、「哲学」とは何か。いつもの新明解国語辞典(第四版)から。
てつがく【哲学】
1.宇宙や人生の根本問題を理性的な思弁により突き止めようとする学問。
2.自分自身の経験から築き上げた人生観(世界観)。
今回は1の方でしょうね。来月、再来月と出張があって、長時間の電車移動があるので、
ちょうどいいかと。その前に読んでしまうことは避けたいw
あと、もう一冊。
『昭和天皇 第四部 二・二六事件』 福田和也 文藝春秋
昭和天皇の二つの重要な決断、これが日本を救います。
ハードカバーが2冊あったらしばらくは持つだろうなあ。すでに読書の秋突入の感もあります。
PR
たまに「戸籍」で検索が入るのですが、さて。
連日のように、百何十歳、江戸時代生まれの人の戸籍が発見された、などという報道が
されていますが(戸籍があるだけでは年金の支給対象とならないのでご安心ください)、
逆に言うと、戸籍は廃棄される可能性があるということです。
お役所に廃棄する義務はないので、後回しになっているようですが、
自分のご先祖様の戸籍、廃棄されないうちに取得しておくことをお勧めします。
連日のように、百何十歳、江戸時代生まれの人の戸籍が発見された、などという報道が
されていますが(戸籍があるだけでは年金の支給対象とならないのでご安心ください)、
逆に言うと、戸籍は廃棄される可能性があるということです。
お役所に廃棄する義務はないので、後回しになっているようですが、
自分のご先祖様の戸籍、廃棄されないうちに取得しておくことをお勧めします。
上野の西郷さんの銅像は、除幕式のときに奥さんが「こんなんじゃない!」って言ったそうだ。
あ、もちろん、薩摩弁でねw
よく見るキヨソネの描いた肖像画も、顔の上半分にいとこの大山巌、下半分に弟の西郷従道をくっつけたもの。
高杉晋作と並んで維新の原動力となった人物。
3月末と同じく9月末も年度末で、すでに年度末進行です。
「受験戦争」というくらいですから、学生さんも戦いなのでしょうが、社会人も毎日戦いです。
上司からはわけのわからない仕事が容赦なく飛んできますし、
クライアントは好き勝手なことを言ってきます(無茶なことを言われても、クライアントとはケンカしちゃダメ!)
うまいこと片付けても(片付いていればまだまし)、次の仕事が降りかかってきます。
どれだけ仕事したくないんだ、自分w
あ、もちろん、薩摩弁でねw
よく見るキヨソネの描いた肖像画も、顔の上半分にいとこの大山巌、下半分に弟の西郷従道をくっつけたもの。
高杉晋作と並んで維新の原動力となった人物。
3月末と同じく9月末も年度末で、すでに年度末進行です。
「受験戦争」というくらいですから、学生さんも戦いなのでしょうが、社会人も毎日戦いです。
上司からはわけのわからない仕事が容赦なく飛んできますし、
クライアントは好き勝手なことを言ってきます(無茶なことを言われても、クライアントとはケンカしちゃダメ!)
うまいこと片付けても(片付いていればまだまし)、次の仕事が降りかかってきます。
どれだけ仕事したくないんだ、自分w
「一揆」の「揆」という字は、はかる(図る、謀る)という意味です。必ずしも暴動を起こしたわけではありません。集団自体が「一揆」なんですね。
外伝 夏目吉信 【なつめよしのぶ】 1518?-72
次郎左衛門、徳川家臣。
1561年、三河長沢城(長沢松平氏?)攻めなど各地の戦いに従軍するが、1563年の三河一向一揆では一揆側に属す。野羽城にこもるが、ともに城にこもっていた乙部八兵衛の裏切りで松平伊忠(深溝松平氏)に捕らえられる。このとき伊忠の嘆願により許されて家康への帰参を果たす。その後、三河、遠江内の郡代を歴任した。
1572年の三方ヶ原の戦いでは家康の兜と馬を借り、武田軍に突入、家康の身代わりとなって戦死。
一説に明治の文豪夏目漱石は吉信の子孫とか。
追記
物足りないでしょうから、小説的に書くとこうなります。
家康は敗色が濃くなる中、なおも戦場に留まって武田勢と戦っていた。吉信は手勢を率いて家康の元に駆けつけ、武田勢を蹴散らすと、家康に向かって言った、「殿、ここはお退きくだされ」
家康にも大将としての矜持がある。そう簡単に引くわけにはいかない。
埒が明かぬと見た吉信、馬上の家康をつかむや地面に引きずり落とし、兜を奪った。そして、家康を自らの馬に乗せ、馬の轡(くつわ)をつかむと、浜松城の方角を向かせた。それから後ろに回り込むと、槍で馬の尻を突いた。馬は一声嘶くと、家康を乗せたまま浜松城へと走り去った。
家康の馬にまたがった吉信は武田勢に突入し叫んだ、「我こそは家康なり」
外伝 夏目吉信 【なつめよしのぶ】 1518?-72
次郎左衛門、徳川家臣。
1561年、三河長沢城(長沢松平氏?)攻めなど各地の戦いに従軍するが、1563年の三河一向一揆では一揆側に属す。野羽城にこもるが、ともに城にこもっていた乙部八兵衛の裏切りで松平伊忠(深溝松平氏)に捕らえられる。このとき伊忠の嘆願により許されて家康への帰参を果たす。その後、三河、遠江内の郡代を歴任した。
1572年の三方ヶ原の戦いでは家康の兜と馬を借り、武田軍に突入、家康の身代わりとなって戦死。
一説に明治の文豪夏目漱石は吉信の子孫とか。
追記
物足りないでしょうから、小説的に書くとこうなります。
家康は敗色が濃くなる中、なおも戦場に留まって武田勢と戦っていた。吉信は手勢を率いて家康の元に駆けつけ、武田勢を蹴散らすと、家康に向かって言った、「殿、ここはお退きくだされ」
家康にも大将としての矜持がある。そう簡単に引くわけにはいかない。
埒が明かぬと見た吉信、馬上の家康をつかむや地面に引きずり落とし、兜を奪った。そして、家康を自らの馬に乗せ、馬の轡(くつわ)をつかむと、浜松城の方角を向かせた。それから後ろに回り込むと、槍で馬の尻を突いた。馬は一声嘶くと、家康を乗せたまま浜松城へと走り去った。
家康の馬にまたがった吉信は武田勢に突入し叫んだ、「我こそは家康なり」
「強力な多剤耐性菌が拡散」(時事通信)
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2010081700004
この手の話は何年に一回かあるのですが、抗生物質が効かないというのは怖いですね。
三方ヶ原の戦いと言えば、夏目吉信なのですが(違)、この人、三河一向一揆(1563-64)では門徒側(一揆側)に属して家康と戦っています。
三河一向一揆の発端については諸説ありますが、根本には家康の領主権と一向宗の既得権の衝突がありました。宗教団体と言っても、経済的、政治的な特権と武力を持っており、戦国大名も無視できない存在でした。主君への忠義で知られる三河武士ですが、一族である松平氏の一部や家臣の一部が一揆側に加わり、家康は宗教の恐ろしさを知ることになります。
一揆側に属した家康家臣でもっとも有名なのは本多正信でしょう。
門徒側が蜂起すると、これに加わり、一揆が終焉すると、三河を去って加賀に赴いたと言われます。のちに家康は高木広正を遣いに出して正信を呼び戻し、正信は再び家康に仕えることになります。家康の帷幄の臣(水魚の交わりとまで言われた)として有名ですが、帰参直後の姉川の戦いでは功を焦ったのか戦場で槍を振るう活躍も見せています(本能寺の変の際の伊賀越えで帰参したというのは訛伝)
もう一人知られるのが蜂谷半之丞貞次。
貞次は一揆側を攻めに来た大久保忠政(忠世、忠佐兄弟のいとこ)を奇襲で破ります。大久保勢は水田に落とされてあわや全滅寸前でしたが、貞次は突如、付近の寺の周りをぐるぐると回りだします。この奇妙な行為に敵味方とも呆然としますが、これはこの隙に大久保勢に逃げろという合図でした。どうも本気で家康には反抗する意思がなかったようです。その証拠に、家康本人と戦場でまみえた際には逃げ出そうとします。しかし、別の兵士が戦いを挑むと、引き返してきてあっという間に討ち取ります。家康がさらに追いすがると一目散に逃げてしまいました。一揆側に属したものの、家康に槍を向けることはためらったようです。一揆が終わると、帰参を許されますが、同じ年の吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争い、敵の銃弾を受けて戦死します。二十六歳。
このほかに門徒側に属した者としては、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺守綱、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明の父加藤教明、徳川四天王の一人である酒井忠次の叔父と言われる酒井忠尚などがいます。一族の中で分かれて争う者も少なくありませんでした。
あれ、三河一向一揆だけで終わってしまいました。この戦いで、家康は三河を支配することに成功します。
ちなみに、「一揆」と言っても、筵旗(むしろばた)に竹槍を持った農民が年貢の減免を求めて立ち上がる、というものではなく(これは江戸時代の百姓一揆のイメージ)、武士や農民(この頃は完全には分離していない)が特定の目的のもとに集団を結成すること(あるいはその集団)で、一向一揆のほかにも、土一揆、徳政一揆、国人一揆、国一揆などいろいろな種類がありました。
一向一揆も信教の自由を求めて立ち上がったわけではありません(そういう側面がないとは言わない)。そういう意味では、ヨーロッパの宗教改革や宗教戦争とは意を異にします。
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=int_30&k=2010081700004
この手の話は何年に一回かあるのですが、抗生物質が効かないというのは怖いですね。
三方ヶ原の戦いと言えば、夏目吉信なのですが(違)、この人、三河一向一揆(1563-64)では門徒側(一揆側)に属して家康と戦っています。
三河一向一揆の発端については諸説ありますが、根本には家康の領主権と一向宗の既得権の衝突がありました。宗教団体と言っても、経済的、政治的な特権と武力を持っており、戦国大名も無視できない存在でした。主君への忠義で知られる三河武士ですが、一族である松平氏の一部や家臣の一部が一揆側に加わり、家康は宗教の恐ろしさを知ることになります。
一揆側に属した家康家臣でもっとも有名なのは本多正信でしょう。
門徒側が蜂起すると、これに加わり、一揆が終焉すると、三河を去って加賀に赴いたと言われます。のちに家康は高木広正を遣いに出して正信を呼び戻し、正信は再び家康に仕えることになります。家康の帷幄の臣(水魚の交わりとまで言われた)として有名ですが、帰参直後の姉川の戦いでは功を焦ったのか戦場で槍を振るう活躍も見せています(本能寺の変の際の伊賀越えで帰参したというのは訛伝)
もう一人知られるのが蜂谷半之丞貞次。
貞次は一揆側を攻めに来た大久保忠政(忠世、忠佐兄弟のいとこ)を奇襲で破ります。大久保勢は水田に落とされてあわや全滅寸前でしたが、貞次は突如、付近の寺の周りをぐるぐると回りだします。この奇妙な行為に敵味方とも呆然としますが、これはこの隙に大久保勢に逃げろという合図でした。どうも本気で家康には反抗する意思がなかったようです。その証拠に、家康本人と戦場でまみえた際には逃げ出そうとします。しかし、別の兵士が戦いを挑むと、引き返してきてあっという間に討ち取ります。家康がさらに追いすがると一目散に逃げてしまいました。一揆側に属したものの、家康に槍を向けることはためらったようです。一揆が終わると、帰参を許されますが、同じ年の吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争い、敵の銃弾を受けて戦死します。二十六歳。
このほかに門徒側に属した者としては、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺守綱、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明の父加藤教明、徳川四天王の一人である酒井忠次の叔父と言われる酒井忠尚などがいます。一族の中で分かれて争う者も少なくありませんでした。
あれ、三河一向一揆だけで終わってしまいました。この戦いで、家康は三河を支配することに成功します。
ちなみに、「一揆」と言っても、筵旗(むしろばた)に竹槍を持った農民が年貢の減免を求めて立ち上がる、というものではなく(これは江戸時代の百姓一揆のイメージ)、武士や農民(この頃は完全には分離していない)が特定の目的のもとに集団を結成すること(あるいはその集団)で、一向一揆のほかにも、土一揆、徳政一揆、国人一揆、国一揆などいろいろな種類がありました。
一向一揆も信教の自由を求めて立ち上がったわけではありません(そういう側面がないとは言わない)。そういう意味では、ヨーロッパの宗教改革や宗教戦争とは意を異にします。