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兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
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家康が天下を取ったのはなぜかというと、

ほかにもいくつか理由はありますが、

一つには、家康に天下を取ろうという意志があったからなんですね。

当たり前じゃないか、と思う人もいるでしょうが、

天下を取ろうと思わなければ天下は取れません。

天下を取って、国、民をどう治めるか、

その展望、構想(ビジョン)がなければ、天下は取れないのです。

そして、家康公ならば天下を治められる、と思った人が多かったからこそ、

天下が取れたとも言えます。

家康一人で天下は取れません。「取らせる」人の存在も必要です。


じゃあ、いまの民主党は、という話ですが、

民主党はあくまで自民党へのアンチ(反対勢力)として存在していたのであって、

それが民主主義における選挙のもとで(それは民意と言うことなのですが)

政権(天下)を取ったということになります。

しかし、天下を治めるビジョン(マニフェスト)は実現不可能な「まがいもの」であって、

治める意志も能力も欠いていました。ここにいまの日本の不幸があります。


さて、天下を治める意志と能力、ということになると幕末の話をしたくなります。

ぼっこりんの代わりに水戸の話・幕末編を書いてみようかw


徳川慶喜という人は、歴史、あるいは時局の中で自分がどう行動すべきか、

というのを明確に、そして的確に認識、把握していた人で、

開国について理解していながらも攘夷派として振る舞った、父水戸斉昭とともに、

たいへんすぐれた人物です。


最後の将軍(要は自分の代で幕府を滅ぼした)ということで、低く評価する人もいますが、

倒幕の動きの中でも、大君(将軍)を中心とした議会政治の構築を模索しており、

そう単純な人物ではありません。

江戸城の無血開城も高く評価していいでしょう。

実際の交渉に当たったのは勝海舟で、新政府軍がやる気なら、

こっちも江戸を火の海にしちゃうぜ、と恫喝混じりだったそうですが。

(有名な会見の図も、勝の横には刀があるが、西郷にはない)

とはいえ、新政府軍の振り上げたこぶしは下ろさざるを得なくなり、

その矛先は会津など東北に向かった、と書くと、

今回の震災を見ても、どうしてこうも東北に試練を与えるのかと思わずにはいられません。


閑話。慶喜の取った行動として有名なのが大政奉還ですが、

これも、新政府軍に日本を治めることができるならやってみ?(できないだろう?)

という挑発的な意図もあったといいます。慶喜には大君構想があります。

そんな状況で、ほとんど無の状態から明治新政府を創り上げた人々は

また別の機会に評価したいと思います。

軍事的に敗れると、自分の構想はさっと引っ込めて、

おくびにも出さない慶喜もさすがなのですが。


天下を治める能力というのは実績ではないんですね(実績があるに越したことはない)。

意志なんです。
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一週間ぶりにスーパーに行ったら、「これでもか」と言わんばかりにお米が積んでありました。

生産者、物流関係、スーパーの方々、ありがとうございます。安心しました。


ヤフーからの孫引きで申し訳ないのですが、気になる記事を。

南三陸町の戸籍データ消失、法務局保存分も水没(読売新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110319-00000893-yom-soci

電子化していても、他の法務局や自治体とデータを共有しているわけではないので、

自治体と法務局の両方のデータが消失してしまうと、復元は不可能と思われましたが・・・。


消失戸籍の復元可能=江田法相(時事通信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000049-jij-pol

津波で消失した南三陸町の戸籍データ、副本発見(読売新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110322-00000827-yom-pol

やっぱり最後は紙なのかなあとアナログ世代は思ってしまいます。

消失というまさかの事態もあり得ることが今回わかったので、

(以前も書きましたが)

たとえ自分は興味がなくても、子孫の誰かが興味を持つ可能性はあるでしょうから、

戸籍は(できればさかのぼって)取っておきたいものです。

自分のルーツを知って、先祖に思いを巡らせることも大事なことだと思います。
いまの「戦国人物紹介」の方式だと、書きたいときに書きたい人を書けないのが悩み。

書きためることはできるんですけどね。

今回は「戦国IXA」で新登場のこの人を紹介してみたいと思います。

昔書いた文章を引っ張り出してみたw




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馬を入れたのは秀逸ですね。おもに水軍を率いて活躍しましたが、

馬とは切っても切れない関係にあります。


【もう一人の加藤】

生徒:加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍の一人ですが、もともと秀吉の家臣だったんですか?

先生:だいたい正解。秀吉に仕えてその養子秀勝(於次)に近侍したが、のちにまた秀吉に属して中国攻めに従軍している。

生徒:於次(お次)こと羽柴秀勝は信長の実子で秀吉の養子となった人ですね。

先生:そう。ほかにも秀勝という人はいるけど、それはまた改めて。ところで、嘉明の父は最初三河(愛知県)にいたんだ。

生徒:え、そうなんですか。家康の家臣だったんですね。

先生:ちょうど彼が生まれた年に三河一向一揆が起こって、嘉明の父は嘉明を連れて三河から近江(滋賀県)に移った。

生徒:難を逃れたわけですね。で、それからは秀吉に仕える、と。

先生:物心ついたときには三河を離れていたけど、元徳川家臣の家というのはあとで役に立ったようだ。

生徒:秀吉に仕えるまでは馬を商いする馬喰(ばくろう)をしていたという話もありますが、官名も左馬助だし馬に縁のある人だったんでしょうか。

先生:さあ? 少なくとも彼の生まれた永禄六年(1563)は午年ではないようだけど。この人はむしろ水軍を率いたことで知られている。

生徒:四国、九州攻めから小田原の陣、朝鮮出兵までずっと水軍の将ですもんね。

先生:九鬼嘉隆のように元海賊衆、というわけでもないのにね。譜代の家臣として豊臣家の水軍を任されたのかな。

【賤ヶ岳の九本槍?】

生徒賤ヶ岳の七本槍の中では出世した方ですかね。

先生:そもそも七人の中に入ってるしね。もとは九人だったらしい。

生徒:戦死した石河兵助と弟秀長の家臣、つまり陪臣(ばいしん、家来のそのまた家来)の桜井左吉を除いたそうです。

先生:どうせ宣伝目的だからね。それと、七人の中では秀吉の縁戚である福島正則加藤清正の二人は別格。

生徒:ともに秀吉政権の晩年には二十万石程度の大名になってますね。

先生:他が数万石程度の大名にしかなれなかったことからも、賤ヶ岳での勝利を宣伝するための使い捨てという感じだね。

生徒:その中で加藤嘉明は伊予で十万石を与えられています。早くから秀吉に仕えていたからですかね。

先生:当人が若かったせいもあるし、秀吉も若い上に成り上がりだから譜代の家臣がいなかったせいもある。

【ひととなり】

生徒:この人のエピソードって多い方でしょうか。馬を商っていたから、悍馬(気性の荒い馬)でも乗りこなせたという話がありますが。

先生:他には朝鮮出兵時に家臣の塙団右衛門を使って抜け駆けの戦功を挙げた話、家臣の性格について語った話があるね。

生徒:生前に書いておいた誓紙で幕府への忠節を示した話もあります。

先生:子の明成が堀主水事件で幕府から詰問されたときに、それを出して嫌疑を晴らしたという話だね。

生徒:でも結局は明成の代にいったん改易されてしまうんですよね。

先生:親の心子知らず、だね。

生徒:これらの話からは機転が効いて、しかも割にしゃべる武将という印象を受けます。

先生:本人がそういうことを言ったかはわからないし、仮託した場合もあるんじゃないかな。

生徒:彼の口から言わせたということですね。

先生:むしろ寡黙な武将という印象の方が強いかな。戦場では沈着冷静な指揮ぶりで知られているし、本人もそう思っていたようだ。

生徒:自分の武勇について誰も批判していないのなら、あえて自分から語らなくてもいい、と言った話ですね。

先生:こんな話もある。小姓たちが火箸を焼いて、知らずにさわった人が熱いと叫ぶのを見て面白がっていたそうだ。

生徒:まさかそのいたずらに引っかかったとか。

先生:そう、たまたまその場に来た加藤嘉明が焼けた火箸をつかんだ。

生徒:そりゃ手から煙も出ますね。

先生:しかしそれにも構わず、灰を静かにならすとその上に字を書き、火箸をさして去ったという。

生徒:小姓たちからしたら冷や汗ものですね。

先生:下手をしたら、こんなことをしたのは誰だ、と殺されてしまうかもしれないからね。

生徒:でもそれって寡黙というよりはむしろ…。

先生:派手さはないが寡黙、冷静なところが幕府には認められて、会津で四十万石を与えられるまでになったとしておこう。


しかし、まあ、子の明成という人がダメな人で、加藤(嘉明)の家はいったん嘉明の遺言のおかげで助かるのですが、結局はお取り潰しになってしまうんですね。

かなりの守銭奴で、しかも一分(いちぶ)金だけを好んで集めたので、世の人は官名の式部(しきぶ)少輔をもじって、「加藤一分殿」と称したそうです。

若い明成(といっても四十過ぎだが)は先代からの老臣堀主水(もんど)と対立、ついに主水は明成の元を去ったのですが、その際に会津城に鉄砲を撃ちかけ、さらに橋を焼き払い、関所を押し通って行きました。激怒した明成は幕府に申し出てようやく主水を捕らえ、眠らせないようにするという拷問を加えてねちねちと処刑。縁切寺である鎌倉東慶寺に逃げ込んだ主水の妻子の引き渡しまで要求しています。

その後、病のために藩を維持できない、と願い出て四十万石は没収、子明友に石見で一万石が与えられました。幕府に「四十万石に代えても主水を捕らえたい」と申し出た言質を取られたためとか、鎌倉東慶寺や主水が逃げ込んだ高野山にまで手を出したためとか、領地没収にはいろいろと事情があったようですが、幕府の改易方針にはまってしまったというところでしょうか。

 

若い人が志を遂げられないままに死んでいくというのはやり切れませんな。


「若い」というのは相対的なものだけれども。


私が「歴史の話をします」じゃなくて、

みんなで「歴史の話をしよう」というのがタイトルなので、

お間違えのなきようw


逸話を紹介するだけなら、本やネットを読めば誰でもできることなので、

それを読んでどう解釈するか、どう思うかってところなんですよね。

じゃないと意味がない。まあ、お気軽にどうぞ。
台湾は国会でも殴り合いの乱闘が起こる国ですから

(と言っても、台湾(民国)は中共に比べればはるかに民主的な国ですが)、

デモが起きてもそんなもんかなと思いますが。北朝鮮でも起きているらしい。


一つ懸念するのは、民衆がデモを起こせば、

体制が倒れる(あるいは妥協する)という錯覚を覚えないかということですね。

もちろん、ろくに選挙もされないようなところでは、

デモでしか民意を表現できないのかもしれませんが、

本質的には数の暴力ですからね。


独裁的な体制が気に食わないからデモをして、体制を倒す、

というのは民衆が自分たちの手で政治をするということでしょうから、

それはそれでいいのでしょうが、破壊した後に創造ができるかですね。

最初に革命が起きたチュニジアのその後についてはほとんど情報が聞こえてきませんが、

体制を倒したとしても、その後、自分たちで政治をして、

結果に責任を持つようにしなければ、ただの「反体制」で終わってしまいます。


対立する意見をまとめて、方向性を持たせるというのは非常に困難なことですが

(独裁者の言うことに従っていれば、自分で考えなくてもいいから、楽は楽なのだ)、

乗り越えていってほしいと思います。

デモも起きないし、政治は迷走して混乱しているだけ、無為に時間だけを浪費していく国もありますが。
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