忍者ブログ
兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり(『孫子』)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

手を貸したら、天下を取ってしまって、元の主君…はともかく、一門を討つ!

って、丹羽長秀と松平春嶽って、立場似てるかもね。

領地も越前はかぶってるよね?


丹羽は秀吉に手を貸しましたが、

秀吉は天下を取ってしまって、織田家をないがしろに。

患った丹羽はこいつが悪い、と腹を切って、取り出した病巣を秀吉に送りつけた。


春嶽は会津の家訓を持ち出して、容保を中央政界に引っ張ってくる。

新政府側に与するが、会津征伐は止められず。

「あんたらの国づくりは第一歩からゆがんでるー」と言っても後の祭り。


PR
家康が作った血のスペアとしての「御三家」ですが、宗家の血が絶えた時にも、御三家に後継者がいれば、徳川家は滅びずに済みます。そして、もし、徳川幕府と朝廷が対立した時にも、朝廷に味方する御三家(具体的には水戸)がいれば、徳川家は残ります。
 
このあたりは、現在発売中の『逆説の日本史19』をどうぞ。
 
大老井伊直弼は「徳川四天王」であった井伊直政の直系の(男系)子孫なんですよね(彦根藩主としては養子を挟みますが)。譜代筆頭として、直政の血を絶やさないようにしたと言います。
 
血のスペア、というのは家康の独創ではなく、室町幕府にも似たような仕組みがありましたし(「足利氏が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とは巷間言われたようですが、足利氏が絶えることは起こらなかったので、実際のところは不明)、また天皇家には宮家という血のスペアがあります。
 
いまや、「ありました」と書くべきでしょうかね。いまや皇族は直宮家(じきみやけ)しかありません(三笠宮、常陸宮、高円宮、桂宮、秋篠宮)。敗戦後に、伏見宮などを初めとした皇族は皇籍を離脱しました。この結果、直宮家には秋篠宮の悠仁親王以外に男子がいないという状況になっています。男系以外は天皇になった例はありませんから(父系をさかのぼると必ず男子だけで天皇にたどり着く)、このままでは皇位継承や皇室活動が支障をきたすことになります。旧皇族を復活させるとか、旧皇族の男系男子から養子を迎えるなど、対策を取る必要があると思います。天皇家で女系はありえません(「天皇家」の性質、性格が変わってしまい、もとの「天皇家」ではなくなってしまう)。このあたりは易姓革命の考え方なども参照してほしいと思います(天皇家に姓がないのはおそらくこれに基づく)。
 
話がそれました。徳川家に話を戻しましょう。最後の将軍、徳川慶喜が水戸出身というのはご存知かと思いますが(水戸は将軍になれないはずだったのだが、吉宗が創った「御三卿」の一つである一橋家の後継者が絶えたので、水戸から慶喜が養子に入ったため、将軍家を継ぐことができた)、幕末におけるほかの徳川家一門はどうだったのでしょうか。
 
まずは会津の松平容保ですが、もともと会津松平家は家光の弟、保科正之に始まります(恐妻家の秀忠が側室に産ませた子)。旧武田家の家臣である保科氏の養子となったので、「保科」を称しています(松平を称したのは三代目以降)。容保は尾張家の支藩である美濃高須藩から会津松平家に養子に入っていますが、さらにさかのぼると、水戸家に行きつきます。慶喜と容保に同じ水戸家の出身としての連帯感があったのかどうかはよくわかりませんが。ちなみに、現在の徳川宗家は容保の子孫に当たります。
 
「八重の桜」でも、容保が定敬(桑名藩主、京都所司代)と兄弟であるという話が出てきますが、兄の慶勝(尾張藩主)、茂栄(尾張藩主、のち一橋家)とあわせて、兄弟は「高須四兄弟」と呼ばれました。
 
松平春嶽(慶永)、越前松平家は家康の二男秀康に始まりますが、春嶽自身は御三卿の一つである田安家の出身で、さらにさかのぼると、八代吉宗にたどり着きます(紀州家)

外様を含めた他藩にしても、どこまでかさかのぼると、誰かの親戚、ということで、慶喜も容保も殺されることはありませんでした。そしてまたその血が後世に受け継がれていきます。
追っかけ「八重の桜」

ようやく、前々回放送まで見終わりました。

補足

「春日局を出した稲葉氏も…」


鳥羽伏見の戦いで、山城の淀藩は新政府軍に内応、旧幕府軍が淀城へ入城することを拒否します。これにより、前線の拠点を失った旧幕府軍は大きな打撃を受けます。「春日局を出した稲葉氏も新政府軍に寝返ったか」と言われましたが、藩主の稲葉正邦は老中として江戸におり、淀城には不在でした。

稲葉氏は初代正成が稲葉一鉄の子重通の養女福(春日局)の婿となって稲葉氏を称したことに始まります。福の父は明智光秀の家臣であった斎藤利三です。最近では、本能寺の変の実質的な首謀者ともされています。



© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

「美濃三人衆」の中で江戸時代も大名として生き残ったのは稲葉氏だけである。


藩祖の薫陶

さらに、その後の戦いでは、京の山崎を守備していた伊勢の津藩が新政府軍に内応し、旧幕府軍に発砲を始めます。「さすがは藤堂氏、藩祖の薫陶が行き届いている」と、旧幕府軍も呆然としたと言いますが、津藩は藤堂氏。藩祖は藤堂高虎です。

戦国時代なら、「七度主君を変えねば武士ではない」という言葉(高虎自身が言ったかは不明)もわからないではありませんが、江戸時代になると、「忠臣は二君に事えず(仕えず)」という意識(この言葉自体は『史記』に見える言葉)が高まりました。「藩祖の薫陶が~」という江戸時代を経ての認識が、高虎に対するマイナスの評価に反映されてしまったのかという印象はあります。ちなみに、この津藩の行動も藩主はかかわっていません。



© 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

この人についてはいずれ「戦国人物紹介」でたっぷりと。


江戸城無血開城

西郷と交渉して、江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟。江戸は野犬の多い町でしたが、勝は子供の頃に犬に睾丸を噛まれて、生死の境をさまよっています(一説に70日間)。父の小吉は水ごり(神社や仏閣で冷水をかぶること)をして息子の無事を祈ったと言います。豪快な江戸っ子のイメージがある勝海舟ですが、その後も犬は苦手だったようです。のち、海舟の子である小鹿には男子がいなかったため、旧主であった徳川慶喜の十男精(くわし)を勝家の養子に迎えています。

西郷との談判が成らなければ、江戸を火の海にする(ロシアのような焦土作戦と言ったところか)と言ったのは脅しではなく、新門辰五郎らに依頼して実際に準備をしていたと言います。有名な談判の図ですが、西郷は脇差だけで、勝は左側に刀を置いているんですよね。西郷は子供の頃の怪我(右腕の神経を切っている)で刀が握れなかったのですが、勝は直心影流の免許皆伝の腕前。別に、勝が西郷を斬りに来たというわけではありませんが。勝の意気込みのほどが感じられます。

もちろん、西郷と勝だけの談判で江戸城の無血開城が決まったわけではありません。薩摩出身で十三代将軍家定の正室天璋院(篤姫)らの嘆願(嘆願はほとんど無視されたという説もある)、海外からの圧力などもあったようです。

まあ、大言壮語の勝先生なので、談判の件にしても、どこまでが本当かというのはよくわかりませんが。


振り上げた拳

前にも書きましたし、ドラマ中で西郷さんも言っていましたが、徳川慶喜が恭順して、軍を率いて東に向かった新政府軍としては、「振り上げた拳をどこに下ろすか」というのが問題となりました。旧幕府方の軍事力を一掃するには(旧幕府方が武装解除をして降伏する以外は)戦って、勝利するしかありません。容保の首を求める主戦派も少なくありませんでした。

一方、旧幕府方としても、一戦交えなければ降伏などできないと考える人々もおり、この人々が会津に向かうことになりました。こうして、望むと望まないとにかかわらず、会津は戦争に巻き込まれていくことになります。江戸城無血開城を果たした勝もこのことは想定していたと思います。

この「主戦派に引きずられる」という構図は、大坂夏の陣における豊臣方に近いものを感じますね。

長くなってきたので、今回はここまでとします。
前に武田家の原昌胤を取り上げた時に、三国時代の魏の鄧艾との共通点、地理に明るい、ということを書きましたが、ドイツのモルトケ(大モルトケの方)も地図作成を評価されて参謀本部に転属されたんですね(この頃の参謀本部はまだ規模の小さいものでしたが)。
 
ドイツ連邦(当時は統一以前)の生まれでしたが、父親の関係で最初はデンマーク軍に所属していたというのも興味深いですね。また、トルコに駐留したこともあるなど、七か国語を操ったそうですが、一方で無口で知られ、「七か国語で沈黙する」との評は面白いですね。
 
ということで、今月の『歴史群像』を読んでいますが、幕末の小銃や会津若松城も取り上げられていますので、「八重の桜」をご覧になっている方もどうぞ。
六波羅蜜寺
http://rokuhara.or.jp/

平清盛のことを「六波羅入道」、「六波羅殿」と言うので、「六波羅+蜜寺」なのかと思いがちですが、「六波羅蜜+寺」でして、「六波羅蜜」という言葉があるのです(「密」は誤り)。6つの波羅蜜(波羅蜜行)ということですが、「六原」という地名に由来するとする説もあります。

有名なのは、空也上人立像(重文)、伝・平清盛像(重文)でしょうか。空也上人の口からエクトプラズムっぽい何かが出ていますが、これは6体の阿弥陀仏で、「南無阿弥陀仏」の6字を表しており、念仏を唱える様子を視覚的に表現しています。


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
六波羅蜜寺から少し北に行って、T字路を東に向かうと坂になりますが、その途中にあります。

参議・小野篁(たかむら)は夜ごと井戸から地獄に通ったと言いますが、本堂裏の井戸がそれと伝わっています。平安時代のオカルト(この言い方はともかくとして)の先駆けみたいなものですかね。京都には晴明神社もありますし、この方面から見た京都も興味が尽きないのですが、このへんで。

境内の散策は自由ですが、堂内の拝観は事前予約が必要です。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首)

小野篁(802-853)は当時の天才、異才と言っていい人で、嵯峨天皇との間の数々の逸話でもその才能を知ることができます。小野妹子の子孫で、小野好古、小野道風(三蹟の一人)は孫。小野小町も同族と言われています。
[24]  [25]  [26]  [27]  [28]  [29]  [30]  [31]  [32]  [33]  [34
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
ブログ内検索
最新のコメント
[10/03 Rakuna]
[10/03 セレス]
[09/25 Rakuna]
[09/25 セレス]
[08/22 Rakuna]
[08/22 セレス]
バーコード
アーカイブ
カウンター
Admin / Write
忍者ブログ [PR]